医学界新聞

 

連載 MGHのクリニカル・クラークシップ

第2回

貧富の差と訴訟社会

田中まゆみ(ボストン大学公衆衛生大学院)


2355号よりつづく

 ボストンでは,事故や災害で救急車が発動すると,金持ちはマサチューセッツ総合病院(以下,MGH)に,貧乏人はボストンメディカルセンター〔以下,BMC()〕に運ばれると言われる。警官と犯人がともに重傷を負った場合,警官はMGHに,犯人はBMCに運ばれるとも。これらは半ば冗談だが,すべてのものに金持ち用と貧乏人用と2通りあると言われるアメリカの中で,医療サービスも例外ではあり得ない。

貧富の差に囲まれた医学教育
しかし……

 先進国で唯一国民皆保険制をとっていないアメリカ合衆国では,医療にも資本主義・自由経済の原理が浸透している。医療保険も「商品」であるから,値段はサービスの内容に比例し,貧乏人は安物の保険しか買えない。もちろん,「必要がない」あるいは「高すぎる」という理由で「医療保険を買わない」という「選択」もある。
 この冷徹な「自由」保険制は,大量の無保険者(全人口の18%)を生み出した。これらの人々は,病気になれば,救急外来(法律により診療拒否を禁じられている)に駆け込むしかない。ハーバード大学医学部と提携している教育病院はすべて救急外来を一般開放し,無保険者の駆け込み寺の役割も果たしている。「金持ちが入院する病院」というイメージの強いMGHでも,入院患者の約2割が無保険者である。こういう,きわめて不平等な医療制度によって医学教育は影響を受けないのだろうか。答えはイエスでもあり,ノーでもある。
 学生たちは,貧富の差を病棟の調度の差に見る。保険の差で退院時期が異なるのを目の当たりにする。しかし,提供する医療サービスの実質内容は同じであり,ヒポクラテスの誓い(患者の貧富により差別しない)を守る意思が貫かれていることを知るのである。

金持ちのための病棟

 日本では差額ベッドという形で価格によるサービスの差異化をほそぼそと実施しているが,資本主義の本家アメリカでは堂々と病棟まるごとがVIP用に豪華設備でしつらえられる。MGHではそれは「フィリップスハウス」とよばれ,高級ホテルなみの調度を誇る。ナースステーションもホテルのフロント風で,「ご予約は何名様で」とでも聞かれそうな雰囲気だ。ここに入院するのは,すべて私費で払えるので保険など不必要か,無制限出来高払いの高額保険に加入している国内外の大富豪たちである。治療が成功すれば感激して大枚の寄付もしてくれそうな,大事なお客様だ。
 その次に,エリソン病棟という小綺麗な病棟があるが,ここと一般病棟との間の患者の振り分け基準は,患者を送り込む個人開業医の意向が尊重され,内科のお得意さま病棟といってよい(隔離が必要かどうかや,空きベッドの分布にもよるが)。その他大勢がすべて一般病棟に入院するわけだが,一般病棟といっても広々とした2人部屋で,すべて個人電話と個人TV,シャワートイレ付きだから,十分快適である。これだけ設備にお金がかかっていれば,医療費が高くなるのもしようがないなあ,と思わせる。
 ちなみに,MGH内科で1泊すれば平均3千ドル,高価な検査や投薬,専門科受診等がかさめば,あっと言う間に4千ドルを越えるそうである。フィリップスハウスがいくら請求するのかは知らないが,お金持ちが気前よく払ってくれるからこそ,一般病棟の無保険者の治療費をMGHがかぶることもできるのだから,フィリップスさまさまなのである。

患者が金持ちかどうかで変わるもの

 しかし,フィリップスハウスに入院しようと一般病棟に入院しようと,レジデントチームが持ち回りで治療にあたることに変わりはなく,治療方針が異なるわけでもない。ちょっと目には,病棟間の歴然たるアメニティの差はショッキングだが,中で働いている人間の気持ちとしては,むしろ,「患者が金持ちかどうかで変わるものは何もない」と淡々としているのだ。
 指導教官もそうだ。MGHの内科では,一般病棟の指導教官には主に教授クラスと熟練開業医を組んであて,エリソン病棟やフィリップスハウスの指導教官には主に準教授クラスをあてている。一般病棟には主治医のいない無保険者やメディケイド(低所得者用公的保険)の患者が多く,患者の長年の主治医(入院指示医)が入院後も何くれとなく指示や注文を出してくるエリソン病棟やフィリップスハウスと比べて,研修医が自分たちで判断しなければならない決定事項が多いので,よりきめ細かい指導が必要だとの理由からである。
 もちろん,前回で述べたような患者に対するマナーも,フィリップスでもエリソンでも一般病棟でも変わらない。むしろ,錚々(そうそう)たる教授が無保険者や生活保護者にうやうやしい態度を取るだけに,一般病棟のほうがマナーがいいとさえ思える。

優れた医師は優れた接客技術を持つ

 とにかくどんな患者に対しても医師は徹底的に低姿勢である。大物教授にくってかかる患者や家族は数多く見たが,医師が患者や家族に声を荒らげたり,ぞんざいな口のきき方をしているのを見たことも聞いたこともない。世界一の水準の医療を行なっている,という誇りは随所に感じられるが,患者にサービスしている,という態度に貫かれ,傲慢さは皆無なのである。
 これは,医療でいう「アート」の中には患者と接する態度も含まれているからである。優秀な医師になろうとする者は,医療技術のみならず接客技術も磨かねばならないのだ。
 というのも,患者に対する接し方が治癒者としての力量に大きく影響するからである。医師が患者に敬意を払い親身であれば,問診や検査や治療にも患者の協力が得やすく,治療効果も上がるのである。つまり,思いやりとマナーも治療行為の重要な一部とされる。よいコミュニケーションは,よい治療結果を生むのである。
 さらに,弱者としての患者の立場・病者にありがちな特殊な心理的負担を理解し,何ゆえに弱者としての患者の人権が守られねばならないか,という臨床心理学や医療倫理もしっかりと叩き込まれる。すなわち,よりよいコミュニケーションのために努力する義務は医師の側に課せられているという自覚が,医学生の段階で求められているのである。そして,このように患者の立場に立った患者医師関係が,患者の人種・性別・年齢・社会的地位や貧富によって影響されることがあってはならないということも。

傲慢な人は医師として不適格

 このようなマナー重視教育の背景には,無視できない現実として訴訟問題があることは確かである。差別されていると感じたら,患者は容赦なく医師を訴える。医療ミスにからむ訴訟でも,患者が医師を訴えるのは実は患者がその医師を嫌いだからだ,とはよく言われることである。よいマナーは,患者に嫌われることを防ぎ,自分の身を守ることにもなる。病院は,悪いマナーの医師は(訴訟リスクが高いから)雇いたがらない。「訴訟されにくいタイプの医師」を養成することは,高い授業料を取る以上,医学部の義務とさえいえる。特に,「優秀な医師ほど訴えられやすい」という統計は,ハーバード界隈の医師たちを一層低姿勢にするに十分といえよう。傲慢な人は医師としての適性に欠けるとさえ言ってよいかもしれない。
 当地に住んでいる日本人たちは,皆一様に,アメリカの医師のマナーのよさには感激している。そして口々に言う,「訴訟が恐いからでもうわべだけでも何でもいいから,とにかくマナーがいいのはいいことよ。訴えたらマナーがよくなるっていうんなら,それもいいんじゃない?」と。

「誓い」を実践するプロフェッショナルたち

 筆者も,日本では睡眠不足と過労から救急患者に失礼な口のきき方をしたことがあり,思い出すと冷や汗が出てくる。アメリカでは,学生もインターンもレジデントも,どんなに疲労の極に達していても,患者に対しては常に礼儀正しい。金持ちであろうとアル中のホームレスであろうと,“Sir"と呼びかけ,敬語を使う。若いのに何と「大人」なんだろうと頭が下がる。
 何よりも,偉い教授たちが,率先してうやうやしく患者へのサービスにこれ勤めているのである。無保険者やメディケイドの人々の多い一般病棟に一番偉い教授を配置するとは,MGHは実に粋な教育的配慮をするなあ,と感嘆していたのだが,実は,医療訴訟を起こす率が一番高いのがこの層の人々である(「保険のせいで不当に差別された」と訴える)とあとで知った。
 しかし,診れば診るほど病院の赤字になるような患者たちを相手に,アラブの石油長者に対するのと同じレベルの医療を同じマナーで提供している研修医や教授たちの献身ぶりを何か月にもわたって目の当たりにしてきた私としては,弁護士に喉元にあいくちをつきつけられての演技とは到底思えない。純粋にヒポクラテスの誓いを実践しようとしていても,訴訟怖さゆえと勘ぐられるアメリカの医師の辛さがしみじみ実感されるではないか。

(註)ボストンメディカルセンターは,ボストン市立病院とボストン大学医学部附属病院が合併してできた,ボストンの貧民地区に位置する総合病院。外傷センターが充実しており,医療の質は高い。