医学界新聞

 

[連載] 質的研究入門 第2回

ブラックボックスを開く(2)

――保健医療サービス調査研究部門の廊下での議論
“Qualitative Research in Health Care”Appendix(付録)より

大滝純司(北大医学部附属病院総合診療部):監訳,杉澤廉晴(同):訳,
藤崎和彦(奈良医大衛生学):用語翻訳指導


前回第2357号より)

社会学者(以下,) そうですね。これらの2つを両極端とすると,その間に位置づけられるさまざまな理論上の視点と調査方法があって,質的なものも量的なものもどちらも含まれています。先ほどの例に戻りますと,私が言いたいことは,外科医の視点も疫学者の視点と同列に,研究計画の枠組みに入れるべきだということです。多元的な方法論は,保健医療サービスに関する調査研究のような応用分野においては必要不可欠です。Medical Research Council(イギリスの公的機関で,医学関係の研究活動やその支援を行なっている)でさえ,保健医療サービスに関する調査研究は「多くの専門分野にわたる学際的研究の典型で,生物科学と臨床科学,疫学,統計学,経済学,社会科学の専門的知識を適切に統合しているもの」だと認めています。もし実験のみを用いるのだとしたら,あなたは中身が非常に限られた道具箱を使うことになりますね。
主任研究者(以下,) 私は無作為化比較研究だけを議論していたのではないのですが……。しかし,実験から得られるような確固とした事実を必要としているのです。
 ええ,でもあなたは,あなたのゴールドスタンダードであるハードサイエンスを用いてすべての事実を判定しています。重要なのは,保健医療サービスにおいては量的な方法だけでは簡単に判定できないものもあるという点です。保健医療サービスの組織とその提供,すなわちケアのプロセスを観察するには質的手法が役立ちますよ。

プロセスは何を意味しているのか?

 しかしプロセスとは,患者がどのような保健医療サービスを受けたかということにすぎないでしょう。私たちが関心を持っているのは,保健医療サービスの生み出すもの,その成果,介入することの結果です。もし患者が死んだ場合,それは悪い結果ということになり,またプロセスに何か問題があることがわかります。ただそれだけのことでしょう。
 それは状況をあまりにも単純化しすぎています。プロセスにはもっと広い定義が必要で,個々の患者に起こることだけを意味しているのではありません。組織やその中にいる人々に関することも含まれます。つまり,死亡患者だけではなく医師や看護職,補助職,政策決定者,管理者,事務員,荷物運搬人たちについて,そして彼らの複雑で混沌とした相互関係と彼らを取りまく構造についてです。プロセスという名のブラックボックスがあって,私たちはそれをまだ開けようとさえもしていないのです。
 それじゃあ,あなたは実際には何をしようというのですか。
 まず手はじめに,手法がいっぱい詰まった道具箱を開けて,無作為化研究や疫学から借りた研究モデル以外の方法を使いたいのです。おそらく,何らかの質的手法を使って保健医療サービスの調査を始められるでしょう。
 そうですか,わかりました。あなたは私たちがあなたの信念に従うように仕向けたいのですね。
 いいえ,私のやり方が唯一のアプローチではありません。私がお願いしているのは,こうした手法をまじめに取りあげて,量的手法と同列に考えていただきたいということだけなのです。事実,現在のマーケティングの世界で,市場調査者は質的手法と量的手法の両方を頻繁に使っているわけですから。
 あなたの言う質的手法とは,実のところ何なのですか。
 では,観察研究のことから説明しましょうか。
 でも私たちは,そのようなことはよくやっています。たくさんの比較研究や,ケースコントロール研究……。
 これはこれは。私たちは,ここで同じ言葉で話してさえいないのですね。私は,ケースコントロール研究のことを言っているのではありません。観察のことを言っているのです。エスノグラフィ(民族誌的方法),つまり人類学者がするように,その状況の中に身を置いて関係者と話すことが必須だと,そういうことを言っているのです。これは,イベントをカウントしたり外部変数をコントロールしたりしないアプローチ方法の一例に過ぎません。いわば,参加者自身の目を通して,何が起きているのかを理解しようとする方法なのです。
 私にとっては,特に何もせずにのらくらするためのいいわけのように聞こえます。大きな問題について,エスノグラフィで何がわかりますか。例えば,入院待ちリストの問題を解決する役には立たないのに決まっています。あなたのすばらしいエスノグラフィで,リストの管理について何か実際的な提案ができますか。

エスノグラフィの価値

 入院待ちリストは単なる列ではないということしかわかりません。これを知ることには意味がありませんか。
 なんと1人よがりな検討はずれのばかげたことか。私は入院待ちリストを管理する最良の方法を知らないかもしれませんが,しかしリストは列ではないと言ってことを複雑にするような社会学者は必要としていません。リストとは,入院を待つ患者の非常に長い列のことですよ。
 いいえ,違うと思います。リストをあたかもバスを待つ人の列のように言ってしまうから,多くの思い込みをしてしまうのです。もしあなたが,本当に入院待ちリストのことを理解したいのなら,それがどのように作られ,どう管理されているのか,その場へ乗り込んで見る必要があるのではないですか。これを行なう一番すぐれた方法とは,入院待ちリストを現にやりくりしている人について研究することです。そうすればあなたも,入院待ちリストは軍隊の作戦研究者がモデルにしたがるような隊列とは似ても似つかないということがわかるでしょう。
 私は,あなたがどうしてそんな考えに至ったのか,未だに理解できませんね。
 先ほどお話したようなエスノグラフィの方法で,1つの地域を詳しく研究することで気がついたのです。リストがどのように管理されているかを観察してみたら,年代順に保存されてはいるものの,患者が順番通りに拾いあげられることは稀であることがわかったのです。


“Qualitative Research in Health Care-まえがき”

Catherine Pope, Nicholas Mays  

 本書(“Qualitative Research in Health Care”)が作られたきっかけをたどると,1991年9月に開かれたイギリスの社会医学学会年次学術集会のための会議資料にまでさかのぼる。その資料を編集し直した“Opening the Black Box”という論文が,その後雑誌「BMJ(British Medical Journal)」に掲載された。この論文(本書の付録として巻末にも収載してある)は寸劇の脚本のようなもので,保健医療サービスの主任研究者と駆け出しの社会学者の間で交わされる架空の会話であり,質的研究と量的研究の対立についての議論が繰り広げられている。
 この論文中の会話の多くは,同僚とのやり取りや,保健医療に関する研究活動での経験,臨床医,研究助成金のスポンサー,雑誌編集責任者らとのさまざまな交渉をもとに書かれたものである。この論文では,十分に検討した上で,質的と量的との間の溝を強調した表現を用いているが,その裏には,保健医療サービスの研究には,その研究課題に応じてできる限り十分に幅広い研究手法を用いるべきだという,私たちの信念がある。
 この論文への反響が大きかったことから,さまざまな研究方法に関するより多くの情報が求められていることがうかがえたため,BMJ社から私たちに対して,一連の資料を細かく見直し,特に方法論についてまとめてみないかとの提案があった。そこで,質的研究の幅広い内容を伝えることをめざし,保健医療サービスの研究に携わっている他の専門的な研究者にも参加を求め,最終的に7つの論文をシリーズでBMJ誌に掲載することができた。それを1冊にまとめたのが本書である。
 本書の第1章では,質的方法の利点を紹介し,それがどのような場合に特に有効であるかを著している。第2章では,この質的方法によって価値のある結果が得られることが期待できる領域について,そしてその作業の正確さを高めるにはどうしたらよいのかを検討している。またこの後に続く各章では,方法の各論について述べている。
 このシリーズを通して私たちがめざしたものは,量的ではない研究方法の概要を,保健医療に従事している人やその研究者に示すことであった。厳密に言えば,結果的には,これらの方法のいくつかは質的とはみなされない可能性がある。
 例えば,多くのconsensus methodsでは,データとして数値が発生するが,そのもとになっているのは主観的な判断である。これらの方法は,医療の場で幅広く用いられているが,依然として誤った理解をされている。いずれにせよ,ここで述べられている方法のすべてに共通しているものは,臨床医やその他の保健医療研究者が慣れ親しんでいるところの,より量的で実験的な,そして疫学的な研究モデルとは異なっているという点なのである。
 本書の目的は,質的研究方法のすべてを記述することではない。そのため,質的研究でしばしば用いられるその他の研究形態,例えばアクションリサーチ(これは医療の現場ではますます用いられるようになってきているが),あるいはdocumentary method(これはトランキライザー依存等の問題に関する研究で用いられている)等には触れていない。
 次に,社会科学の領域に見られる「量的な方法」対「質的な方法」という,認知論的あるいは方法論的な議論についても,特に言及していない。私たちは,異なる研究手法の理論的あるいは哲学的な基盤や社会科学の展望に関する論議については検討していない。
 私たちはただ単に,異なるタイプの研究手法は,研究者に異なる知見を得る機会を与えると考えているだけである。これらの種々の知見には必ずしも順位をつけられるものではなく,また何が「現実に」起きているかを描出する際に,それらを統合できるものでもない。それらが互いに相反する知見を提示することもあるかもしれない。私たちは,質的方法と量的方法は,互いに補い合うものだと見なされるべきであり,物事の理解や意味づけをより一層豊かにすると考えているのである。
 本書の目的は,つまり質的方法になじみのない医師,看護婦,その他の研究者に,実用的なガイドとして用いてもらうことであり,これらの方法の内容の概略を説明し,実際の利用方法や一般的な失敗や利点についても紹介することである。各手法を,保健医療の研究に適用する例をあげるようにも心がけた。また,各章には参考文献をつけ,さらに深く学びたい人のための参考書も掲載したので,より詳細に学ぶ上での助けになると思う。
 今回,本書をまとめるに際しては多くの同僚や友人,特に各章の執筆者にお礼を申し上げたい。彼らは私たちを励まし刺激してくれた。また,BMJの編集担当者に対しては,質的研究を重視しようとする姿勢,そして,このシリーズを本の形にまとめようとしてくれた熱意に感謝申し上げる。

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