医学界新聞

 

NURSING LIBRARY 看護関連 書籍・雑誌紹介


人材の裾野と個人の可能性を広げる1冊

ナースのためのキャリアアップガイド
操華子,山田雅子,沼田美幸 編集

《書 評》竹崎久美子(兵庫県立看護大・看護学)

選択肢が広がる時代の中でどのようなキャリアを積むか

 看護に携わる者にとって,自らの将来にこれほど多くの選択肢が広がる時代が来ることを,誰が予想しただろうか。本書を手にすると,そのような感慨が胸に迫る。そして本書の最大の特色は,その選択肢1つひとつについて,具体的な事前準備や手続き,覚悟すべき心構えに至るまで,実際の体験者たちによって解説されている点にある。
 中でも本書は,看護学の専門教育・専門資格にまつわるキャリアアップについて,多くの章が割かれている。国内看護大学への進学方法に関する情報は言うに及ばず,海外留学に関する章では,各国の看護教育の歴史的背景から現在の看護教育の現状,取得できる学位の価値まで,主要な国別に解説されている。また外国で働くため の章では,外国人であるわれわれがどのようにその国の資格を取得しなければならないか,準備には何が必要かなどについても,これまで皆無に等しかった情報がやはり国別に詳しく紹介されている。
 そのため,単に外国で学ぶ・働くといっても,国情によって積まれるキャリアがここまで異なるのだということがよく理解できる。「自分は看護あるいは看護学に関してどのようなキャリアを積みたいと思っているのか,それをよく見定めて準備を十分に行なってほしい」,そんな編者たちの願いが込められていることが感じられる。

夢を実現するために

 この他にも国内外を問わず情報は多岐に及び,実際に夢を具現化するための細かなガイドラインが示されている。自らのキャリアアップを検討中の人たちにとっては必携の書であろう。と同時に,そのような可能性を秘める人材に関わっている,学校関係者あるいは看護管理者にも,ぜひ一読をお勧めすることを申し添えたい。なぜなら,将来を夢見る人材たちの相談にのったり,キャリアを積んできた人材を生かし,さらなるキャリアアップのチャンスと可能性を与えることにも,本書は大いに活用できると考えるからである。
B5・頁170 定価(本体2,800円+税) 医学書院


手術患者の最大利益に寄与するための看護の探求を記述

《看護QOL BOOKS》 手術患者のQOLと看護
数間恵子,井上智子,横井郁子 編集

《書 評》雄西千恵美(東海大健康科学部助教授・看護学)

看護本来の役割

 医療の中でQOLが語られるようになって久しいが,看護はこれまでも,患者の苦痛を軽減し,その人がより健康的な生活を送れるよう援助することを役割としてきた。言うなれば看護は伝統的に患者のQOLの向上を到達目標にしてきた。
 しかし,テクノロジーの発展や法の規定は逆に看護本来の役割を見えにくくする一面を作り出したのかもしれない。例えば,モニタリング機器が高度になったあまり,あるいは法的な義務や業務に忠実なあまり,患者の苦痛や不利益を見過ごす結果を招いたとは言えないだろうか。
 このような部分に既成概念や慣習に捕らわれない看護本来の役割を明らかにしようとする編者たちの意図がくみ取れる。つまり,どのように看護を提供することが手術患者のQOL向上につながるか,である。手術患者の看護といえば,術前術後の劇的に変化する現象に関心が集中しがちであるが,患者の立場に立って,その人の主観的な体験にひたすら関心を傾けるところからQOL向上をめざした援助が具現化されるというのである。
 この大命題がすべての章に一貫して,理論と実践が一体となって記述されているので,読み進むほどに本書のテーマの意味がじっくり具体的に理解できる構成に仕上げられている。また,著者たちが,それぞれの執筆領域を専門とする研究者や臨床エキスパートであるので,読者の知的欲求を十二分に満たす内容になっており,参考書としての価値をいっそう高いものにしている。

類書にはない実践的な援助方法を展開

 第1部では,手術患者の援助に共通する実践理論について,これまでにない新たな切り口で論じられている。つまり,手術目的を達成する一方で生じる不都合に,患者が適応していく過程をどのように支援するのか。この鍵になるのは,医療の主体である患者の意志決定であり,コーピング方略とコントロール感覚であることが詳細に論述されている。
 第2部では,術後障害への適応をどのような視点から支援するのか,機能障害別に論じられている。ここでは病態生理学的な機序を基盤にして,看護過程に添ってより実践的に記述されており,他の参考書にはない実践的な援助方法が展開されている。
 本書はあらゆる看護職に活用できるが,臨床現場で看護の方向性を模索している看護婦(士)にとっては,必ずや意味ある手がかりを発見する1冊になるであろう。
B5・頁314 定価(本体3,500円+税) 医学書院


護教育への熱意綴られ感銘受ける力作

看護教育学 第3版 杉森みど里 著

《書 評》山口瑞穂子(順天堂医療短大教授)

大幅に改訂された第3版

 本書は1988年に初版されたものを,著者の千葉大学看護学部退官記念にあたり看護学教育の集大成として大幅に改訂し,第3版として出版されたものである。
 著者は12年の臨床経験の後,看護教員養成課程を筆頭に,看護専門学校,短期大学,大学,大学院と看護婦(士)養成教育のすべてに関わり,看護学教育に託す思いが強く,本書にその豊かな経験と研究成果がまとめられた。
 著者の格調高い文章力にも感心するが,それ以上に看護学教育への熱意が綴られ感銘を受ける力作である。

確固たる裏付けのある内容

 内容は,第1章では看護教育学への模索と題し看護教育,看護学教育,看護教育学などことばの使い方の違いについて,看護婦(士)養成教育の歴史的変遷を通して考察する。また,研究成果として看護教育学の授業内容を構造化すると同時に課題を提起している。
 第2章の看護教育制度論では,看護婦(士)養成教育の学校教育体系化や看護学の発展を阻んできた原因を明らかにし,大学,短期大学,看護学校の現状を資料をもとに検討。大学における研究者,教育者の育成が看護学確立の基本条件として整備すべきであると述べている。
 第3章,看護学教育課程論では指定規則の枠組みにしばられ,大学,短期大学,看護学校の教育目的・目標に差異がないことを指摘。多様化する高等教育化を視野に入れた学際的な性格を持つ教育課程編成の必要性を説いている。
 第4章は看護学教育組織運営論である。看護教育における学校経営,管理の貧困さをあげながら18歳人口の減少を考え,各看護教育養成機関に合わせた目的・目標を設定し,看護教育組織運営論として考えていく必要性を述べる。
 第5章,看護学教育方法論では,一般教育における学習理論から看護学独自の授業展開を具体的に示している。
 第6章,看護学教育評価論においては,評価の機能について解説し,看護学教育における授業評価の実際を示し,一方的評価を多面的評価に,教師中心から学生主体に評価を考えなければという。大学自己点検・評価の理論的背景についても明らかにする。
 第8章,看護学実習展開論では実習の重要性を説き,経験主義,厳格主義を主として発展した臨床実習を学問とし,各看護学領域の看護学実習として成立させるべきであると具体的展開を示した。
 第9章,看護教育学研究論は1つの知識体系が学問として形成されるには研究結果の集積を待つ以外に方法はないと述べ,過去の看護教育学の研究領域を分析し,看護教育学研究のあり方を倫理的問題を含めて述べている。また,著者は,自身の看護教育学研究の実際をどのように教育実践に活用するかを示しつつ,研究成果の活用の必要性を説く。
 このように著者は過去の貴重な資料を詳細に分析,解説しながら確固たる裏づけの基に将来の展望を描きつつ実践活動を通して本書にまとめたと言える。看護教育に関わるすべての方々に精読をお薦めしたい成書である。
B5・頁488 定価(本体4,600円+税) 医学書院


現象学の成果を踏まえ,新たな看護学の構築を図る

ベナー/ルーベル 現象学的人間論と看護
パトリシア・ベナー,ジュディス・ルーベル 著/難波卓志 訳

《書 評》紀平知樹(阪大大学院・臨床哲学)

 学問とは永遠の真理を求めるものである。その模範とされたのがユークリッドの幾何学であり,そこから発展してきた数学である。そこでは世界のあらゆるものが客観的で精密な規定によって表されている。このような科学の支配が長く続いたおかげで,客観的に精密な規定で表されたものこそが真理であるという先入観を抱いてしまっている。
 今世紀の初めにフッサールが現象学を開始し,あらゆる先入観を取り去って,「事象そのもの」をみることの必要性を説き,これまで絶対的なものだと思われてきた自然科学の精密な規定が,実は,曖昧なわたしたちの日常の経験に基づいているということを明らかにした。このフッサールの現象学からハイデガーの『存在と時間』やサルトルの『存在と無』,メルロー・ポンティの『知覚の現象学』等が生まれることになったわけであるが,パトリシア・ベナーとジュディス・ルーベルによる本書『現象学的人間論と看護』はハイデガーとメルロー・ポンティの哲学の成果を踏まえつつ新たな看護学をうち立てようとするものである。具体的には近代の自然科学を支配しているデカルト的心身二元論を克服し,全体論的な人間観をうち立てることにある。

病気を1つの体験として考える

 著者たちが現象学的な観方をとるということは,病気を1つの体験として考えるというところに色濃く現れているように思われる。著者たちによれば,病気(illness)とは,「能力の喪失や機能障害をめぐる人間独自の体験」であるとし,「細胞・組織・器官レヴェルでの失調の現れである」疾患(disease)と区別する。わたしたちは常に何らかの体験をしているわけであるが,それは常に何らかの意味として体験しているということである。そしてその意味はその人たちの巻き込まれているさまざまな状況によってある程度規定されている。だから2人の人が同じ疾患を持っていたとしても,その人たちがどのような意味としてその疾患を解釈するかの違いによって,2人の病気は異なったものとなる。看護婦(士)は,そのような患者の体験を理解することをめざさなければならないと著者たちは言う。
 そのために要求される看護理論は,一般的・抽象的な理論ではなく,個別的・具体的な理論である。というのも,ある疾患を持った患者への対処の一般理論は,まさに今自分が直面している患者とは異なる病気を持っている患者についての理論なのであり,そのような患者の体験としての病気を理解するためにはそれほど役には立たないからである。
 また著者たちがもう1点強調するのは,身体の役割,特に「身体に根ざした知性」という考え方である。例えば普段の生活で,自分の家の中を歩き回る場合,わたしたちはいちいち前に何があるかを気づかいながら歩いているわけでない。また電気を消してもある程度ものにぶつからずに歩くことができる。これはまさに身体がその状況を熟知しているからであり,まさに身体がその状況に住み込んでいるからである。このような身体に根ざした知性を看護の場面にも取り込むべきだと著者たちは主張する。
 例えば背中をさすること,清拭,寝たきりの状態にするのではなくできるだけ歩行をさせるなどをして,患者の身体に蓄積されてきた習慣性を喚び起こすことによって快復を促進させるべきだという。
 ここで身体に苦痛を与えるような疾患を考えてみよう。著者たちは,身体による感覚と認識は本質的に曖昧であるという,またその苦痛をある意味として捉えているのである。その場合たった1分間の苦痛が永遠に感じられる時もある。特にその苦痛が大きければ大きいほどそれは永遠に続くかのように思われる。たしかに客観的に時計で計るならどの1分も同じ1分である。しかしそれを意味という点で捉えるならばさまざまな1分がありえる。看護婦(士)はそのような時計で計った客観的な1分の苦痛に対処するのではなく,永遠に感じられる1分の苦痛に対処しなければならないのである。

看護における事象そのものを明確に描き出す

 著者たちはこのような現象学的な観方から,ストレスへの対処,人生のさまざまな局面における病気への対処,健康の増進,癌への対処,冠状動脈疾患への対処などのような場面で,看護婦(士)はどのように患者を理解し,患者の体験としての病気に対処すべきかを明確に描き出している。また最後の章においては,看護職という職業の中で生じてくるストレス,例えば「燃えつき」に対して,自らどのように対処すべきかということをも述べている。
 現象学は1つの学説ではなく,「事象そのもの」を見るための方法である。本書は看護における事象そのものを明確に描き出しているという点で1つの現象学の成果と言えるであろう。またそこから看護にとって必要なもの,看護婦(士)は何をなすべきかということを導き出しているという点で看護理論にとっても大きな成果であると言えるのではないだろうか。
A5・頁534 定価(本体4,600円+税) 医学書院


援助における支配性と物語による癒し-介護保険中毒者が読んだ援助職論

アディクション アプローチ
もうひとつの家族援助論
 信田さよ子 著

《書 評》池田省三(龍谷大社会学助教授)

 小林秀雄風にいえば,私は5年前に介護保険という「事件」に巻き込まれた。そして,いまも「事件」の渦中にいる。いわば介護保険アディクション(嗜癖)に陥った者である。本書は臨床心理士によって書かれた書であるが,介護保険を考える私にも多くを教えてくれた。

「援助の価値」を疑う

 信田氏は,「愛情とは支配のことなのだろうか。支配の『支』の字は支えると読めるではないか」と述べている。これは,私にとって1つの発見である。これまでの高齢者介護施策は何か。行政が,扶養関係と所得を勘案して,要介護高齢者に介護という支えを配給する制度だったではないか。まさに「支え」を「配る」制度,つまり支配の構造そのものであり,私はこれに対する嫌悪感から出発し,介護保険にのめり込んでいったのだ。
 援助者と被援助者は,意識されようと,されまいと,支配と従属の関係に入り込む。これに対して,信田氏は「援助者と被援助者の等価性をどのように保障していくか」という観点を対置する。援助職にとって,愛情,献身,奉仕などという「援助の価値」を取り去り,逃れられない支配性は必要悪として自覚に至る作業が必要である。援助行為の報酬として「金銭」の支払いが介在することにより,最終的に等価性が保障される。信田氏のこうした指摘は,社会的な介護システムが,社会扶助制度から社会保険に転換し,サービスが「商品」として流通する意味を的確に描き出していると言える。
 さらに,家族という密室の中で,支配-被支配のパワーゲームが展開するという観点も,きわめて重要なものである。痴呆性高齢者のケアにあたって,家族は最も不適切な介護者であることが多い。例えば,夫が痴呆となれば,妻との支配-被支配の関係は逆転するが,夫の問題行動の拡大という展開でさらに逆転する。そして,シーソーゲームの果てに,収拾のつかない状態を生み出してしまう。本書では,痴呆性高齢者への援助が書かれているわけではないが,応用すれば,「適切なケア」とは何かが発見できるのではなかろうか。

関係性の再構築としての「物語」

 もう1つのキーワードは「物語」である。信田氏は,「私とは『私についての物語である』」という。専門外の私にとって,この「物語モデル」を説明するのは困難であるが,おそらくそれは関係性の再構築という作業のことを指すのだろう。他者から規定された関係性,自分が陥ってしまった関係性は虚妄であるとし,新しく創り上げる物語は虚妄でありながら,自己の位置を移動させるが故に真実に転換する。そのような関係性の創造と意思の変化は聴き手を必要とする。だから,断酒会のような自助グループが専門家のカウンセリングを超えた効果を示すことが起きる。介護にひきつけて考えれば,要介護者に対して,それがどんな小さなものであれ,自己表現,自己実現への契機を引き出し,これを展開していくことがきわめて重要な自立支援方策である。「物語モデル」もまた,そうした意味合いにおいて,高齢者介護のあり方に何らかの発見ができるはずである。
 本書は,人間のdignity(尊厳)というものを,思い入れなしで教えてくれる。その点から,看護・介護職とりわけケアマネジャーにぜひとも一読してほしい本である。援助者の「愛情や献身」が支配欲を満足させるものであったり,依存や反抗も従属の形態であるということを,看護・介護職は知らねばならない。あらゆる局面で自立を支援するとは,常に本人が主人公なのだという立場に立つ必要がある。
 私事であるが,信田氏は高校の同級生である。本書の最後に「ポストではなく,モダンそのものに首まで漬かっている」,「普遍に近づきたい」と記されているが,その思いは,私にもまったく共通する。ポストモダンに魅入られつつも,介護保険という「事件」の中で,結局は,私もプリモダンと闘うモダンの子だったからである。
A5・頁216 定価(本体2,000円+税) 医学書院