医学界新聞

 

連載
経済学で医療を診る

-医療従事者のための経済学

中田善規 (帝京大学経済学部助教授・医学部附属市原病院麻酔科)


第8章 リスクと医療保険(1)

はじめに

 今回の話は前回までとは少し違ってきます。今回のテーマは不確実性の経済学です。こういうと難しく聞こえるかも知れませんが,医療の分野では保険や臨床意思決定に応用される経済学の分野です。今回はリスクと保険について考察してみましょう。
 ご存知のように,日本は長らく国民皆保険制度を維持してきましたが,近年,健康保険組合の赤字がマスコミで取り上げられるようになりました。医療費の増大が問題となっている原因の1つは,この健康保険組合の赤字です。さらに最近では,民間の保険会社がガン保険などで医療保険の世界に参入しており,一部には医療保険をすべて民営化せよとの議論もあります。
 それでは,そもそもこの世の中になぜ「保険」というものが存在するのでしょうか。またどうして「保険」が必要なのでしょうか。「保険」とは相互扶助であると言う人もいるでしょう。また慈善行為であると言う人もいるでしょう。病気やケガで困っている隣人を助けるのは人間として当然で,これを制度化したのが今の医療保険であると。だから相互扶助や慈善の精神を無視して利潤追求を目的とする民間企業に医療保険をゆだねるのはとんでもないと考える人もいるでしょう。しかし経済学ではこれとは違った考え方をします。すなわち保険とは「リスクに対するヘッジ」と考えます。

不確実な将来

 いくら科学が進歩しようとも将来のことを「確実」に予測することは不可能です。将来の予測は必ず確率で表現されます。ここにある人がいるとします。この人が将来病気に倒れるかどうかは「確実」にはわかりません。しかし疫学・公衆衛生学などのおかげで,年齢・性別・喫煙歴・リスクファクターなどを分析すれば,この人が病気になる「確率」はかなり正確に予測できます。ここでは話を簡単にするため,病気になる確率を50%と仮定します。
 病気になると当然のことながらいろいろと不自由が生じます。例えば,病気のために仕事ができず収入が減ることがあります。また医療機関を受診するためにお金が余計にかかります。また介護や看護のために家族に負担をかけることになります。そしてなにより,病気になった本人は痛みやその他の症状を苦しむことになります。こうした多くの要素を単純化して金銭に換算して考えます。この人が健康な時には年収が500万円あったとします。しかし病気になると,医療費や仕事ができなくなったために実質の年収が100万円にまで落ちると仮定します。この様子をまとめると図1のようになります。この時の期待される収入(期待値)は
 500万円×0.5+100万円×0.5=300万円
より300万円となります。

限界効用逓減

 さて人間は収入の大きさに応じて満足度が変わってきます。すなわち一般に収入が多いほど満足度は高まります。この満足度のことを経済学では「効用」と呼びます。またこの収入と満足度(効用)との関係を表す関数を効用関数といいます。しかし収入と満足度(効用)とは直線的な比例関係にはありません。収入が高いほど効用の伸びは鈍化します。例えば,収入が10万円の人が1万円もらうと効用は大いに高まりますが,収入がすでに1億円の人が1万円もらっても効用はほとんど高まりません。すなわち,効用の増加分(これを経済学では「限界効用」という)は収入が大きくなるにつれて小さくなります。これを限界効用逓減といいます。このことから収入を横軸に,効用を縦軸にとって満足度をあらわすグラフを描くと図2のように上に凸の右上がりの曲線が描けます。実際のところ効用は概念的なもので実測できるものではありません。したがって単位もありません。
 以上で分析のお膳立てができました。

不確実性の効用

 では,図1で例にあげた人の効用はどのくらいになるのでしょうか。健康が維持できて収入が500万円のときは,図2より効用は100となります。しかし,病気になって収入が100万円に落ち込んだ場合の効用は,図2より40になります。病気になる確率は50%ですが,どちらの状況が実際将来に起こるかはわかりません。この時の期待される収入は上の計算から300万円です。しかしこの人は収入が300万円になるわけではありません。100万円か500万円のどちらかです。この不確実な将来の効用は,図2の点Aと点Bを結ぶ直線の中点Mとして表されます。図2ではこの効用は70となります。収入が確実に300万円となる場合の効用は図2の点Cで表されて,その値は80となります。点Mの効用が不確実性のため点Cの効用より低くなっていることに注意してください。すなわち,一般に確実な300万円のほうが不確実な300万円(100万円かもしれないし,500万円かもしれない)より好まれるのです。

不確実性と保険

 さてこの人は,不確実な将来のリスクを確実なものとするために保険に加入します。どのような保険が考えられるのでしょうか。
 不確実な将来に直面しているこの人の効用は点Mで70です。この効用は点Dと同じです。すなわちこの人にとって不確実な300万円は確実な250万円と同等の効用があります。この250万円が期待される収入(300万円)より小さいことに注意してください。よってこの人は健康・病気にかかわらず,確実に250万円以上が手に入るような保険があれば喜んで加入することになります。
 例えば,ある保険会社が次のような医療保険を発売したとしましょう。加入のための掛け金は230万円。健康ならばそのまま掛け捨てになります。しかし病気になれば400万円が支払われます。不確実な将来に直面するこの人がこの保険に加入するとどうなるでしょうか。この人が健康なままでいれば,収入は保険の掛け金分が減るので,
 500万円-230万円=270万円 となります。しかしこの人が病気になれば,収入が100万円に減りますが保険金が400万円おりるので,
 100万円-230万円+400万円=270万円 となります。要するに不確実な将来に直面する人は保険に加入することで,健康・病気にかかわらず確実に270万円の収入を手にします。これは上で見た250万円よりも大きいので効用が上昇します。この人は喜んでこの保険に加入することになります。
 ところで,こんな医療保険を売ってこの保険会社は利潤があがるのでしょうか。加入者が健康なままの時,保険会社は掛け金をすべて手に入れるので,230万円の収入になります。しかし,加入者が病気になると保険金を支払わねばならないので,
 230万円-400万円=-170万円 つまり,170万円の損失となるのです。
 図1よりこれらの起こる確率は,それぞれ50%です。一般に保険会社は同じような大勢の加入者を募りますから,もし,同じような加入者を100人集めると,確率的に50人は健康のままで,50人は病気になります。すると保険会社は,
 230万円×50人+(-170万円)×50人 =3000万円 の収益をほぼ確実にあげることができるのです。もちろん確率ですから,収益がいつもぴったり3000万円になるとは限りません。ごくまれには保険会社が損失を出すこともあるでしょう。しかし加入者が多ければ多いほどこの理論値に近づきます(確率論の「大数の法則」)。このように保険に加入することで加入者も保険会社もともにハッピーになります。

保険の機能

 このように双方ともに幸せになれる保険は一体何をしていることになるのでしょうか。保険は,リスクすなわち将来の不確実性を加入者から保険会社に移しているのです。各個人は収入が病気によって大きく変動するのを嫌います。特に収入が病気によって減少すると生活が破綻する場合もあります。しかし掛け金を支払って保険に加入することで,収入の変動を押さえることができます。一方,保険会社は加入者の収入の変動を押さえることで,自らの収益が確率で変動することになります。つまりリスクが加入者から保険会社に移動したことになるのです。しかし,大勢の加入者を募ることで保険会社はそのリスクを小さくすることができます。このように保険とは,リスクを担うことのできない者(個人)からリスクを担うことのできる者(保険会社)にリスクを移動させる手段です。
 さらに上に見たように,保険はビジネスとして十分成り立ちます(利潤が発生)。すなわち利潤を目的とする民間企業が行なうことができます。この意味で医療保険は相互扶助でも慈善行為でもなく,ビジネスです。実際,火災や自動車事故などは民間企業が行なっており,利潤をあげています。したがって医療保険がビジネスとして成り立たない理由はありませんし,また政府などの公的機関しか医療保険を供給できないという経済学的根拠もありません。
 しかし現実には,日本の医療保険は大部分を公的性格の健康保険組合が担っています。またビジネスとして成り立つはずの医療保険で,多くの健康保険組合が赤字に悩んでいます。これは一体なぜか,次回で詳しく考察したいと思います。