医学界新聞

 

人間をみつめて――戦禍の街サラエボに考えたこと

西 大輔(九州大学医学部6年)


 コソボ,と聞いて知らないという人はほとんどいないだろう。今年3月24日から始まったNATOによる空爆と大量の難民のため,ユーゴスラビアの中にあるこの自治州は世界中から注目されることになった。
 だが,コソボの西隣にある小国で,3年半前までコソボよりさらに悲惨な紛争が起こっていたことは知らない人も多いのではないだろうか。
 ボスニア・ヘルツェゴビナ。九州と四国を合わせたくらいの大きさの国に,福岡県の人口に近い約450万人の人々が住んでいる。その首都サラエボを,僕は1998年の夏に訪れた。
 サラエボは1984年の冬季オリンピックの舞台となり,多民族共生の美しいコスモポリタンとして,世界中にその名を知られた。だが,旧ユーゴスラビア紛争のため市内にあったオリンピック博物館は破壊され,地雷埋設の危険から現在では立ち入り禁止区域となっている。窓もなく壁の塗装もはげおちたその建物から,昔をしのぶことは難しい。博物館だけではない。同じ理由で破壊されたままになっているビルや家屋はサラエボ市内だけでもかなりの数にのぼる。道路には,灰色のコンクリートに混じってところどころに赤い円形状のかたまりが見える。地元の人が「花」と呼ぶこの赤いコンクリートは,砲弾が道路に空けた穴をふさいだ際,戦争の記憶を忘れないようにわざと赤に着色したものだそうだ。道路から目を上げると,市内を見下ろす丘のいたるところに墓地がある。
 1992年春,旧ユーゴ紛争はボスニアを舞台として始まった。それは,92年3月にボスニアが旧ユーゴスラビアからの独立を宣言したことに端を発する。独立に賛成だったムスリム,クロアチア人と反対だったセルビア人との対立が激化し,その後ムスリムとクロアチア人との間にも争いが広がった。間接的にはアメリカ,EU,ロシアなどをも巻き込んで,紛争は1995年12月まで3年以上にわたって続いた。 紛争で起きた最も悲惨なことの1つは,エスニック・クレンジング(民族浄化)である。各勢力は自分たちの支配地域から他民族を抹殺するために,他民族の女性をレイプし,子どもを殺した。ムスリムの多かったボスニアの首都サラエボもセルビア人勢力により包囲され,市民は連日の砲撃と物資不足に苦しんだ。
 1995年12月に一応内戦には終止符が打たれ,ボスニアはムスリム,クロアチア人で作る「ボスニア連邦」とセルビア人の「セルビア共和国」という2つのエンティティ(独立体)の連合体に変わった。もともと多くの地域で他民族が共生していたにもかかわらず民族別に居住地を分けてしまったために,民族の集団の分布図が変わった。そのために解決が難しくなった大きな問題が,難民帰還である。停戦から3年以上たった今も,自分の民族が住民の多数を占めている地域への帰還(Majority return)はほぼ完了したものの,自分の民族が少数派となる地域への帰還(Minority return)はまだ始まったばかりで,自分の家に帰っていない人の総数は180万人にのぼる。
 旧ユーゴ難民の中には,敵に奪われることを嫌って自分の家に地雷を埋めてから脱出した人も少なくなかったと聞く。その結果300万個以上ともいわれる地雷が,今なお残っている。そして何より,この紛争で約25万人が命を失った。彼らはもう帰らない。崩れかけた家の畑では,主人の帰りを待つかのようにトウモロコシが何も言わずただもくもくと伸びていた。

みんな眠れなくなった

 好奇心のかたまりのようになって地図を片手に市街を歩きまわっているうちに,大きな病院を発見した。途上国と呼ばれる国や何か問題を抱える国に行くとき,僕はよくその国の医療施設を訪れる。今回は何のアポイントメントもとっていなかったのだが,とりあえずその病院の中に入っていった。受付にいる初老の男性に話しかけてみる。
 「日本から来た医学生なんですが,もしよければ病院の中を見学させてもらえませんか?」
 「どうしてアポをとってから来ないんだ。今日は週末でドクターがあまりいないから,病院の中は案内してあげられないよ」
 喜怒哀楽の表情たっぷりにこう話しはじめたボンベック・ラディスラブさんは,1937年生まれの61歳。サラエボでも最大規模のコシェボ病院で受付や事務の仕事をしている。病院の中を見学できない僕に気の毒そうにしながらも,自分でよければいくらでも話をしてやるよ,と気さくに話を続けた。
 「お前に面白い話をしてやろうか。サラエボじゃ,戦争の間心臓病がうんと減ったんだ。なぜだかわかるか? それはな,食べ物がなかったからさ。俺を見ろよ。太ってるだろう? 今は体重が84キロあるんだ。戦争前は82キロだった。ところが戦争中は60キロまで減ったんだ。あのときは,1日170グラムのパンと,その辺からむしりとってきた草でみんな食いつないだもんさ。95年になって戦線が落ち着くまで,俺は3年間じゃがいもってものにお目にかからなかったよ」
 彼の月給は300マルク。僕の知る限り,ボスニアの物価は西欧と大差はない。食べ物に不自由しなくなったといっても,今でも暮らしが楽でないことは間違いない。
 「戦争から受けた精神的なショックをぬぐえていない人もまだたくさんいる。例えば,夜だ。デイトン合意の後,俺たちはみんな眠れなくなったんだ」
 デイトン合意とは,1995年12月に戦争当事国が調印した和平協定のことである。この合意は統一国家ボスニアを民族別に分割するものとして当初から批判が強かったものだが,少なくともこの合意によって目に見える戦闘はなくなった。夜も安心して眠れるようになったはずである。なのに,なぜ?
 「夜になると沈黙がやってくる。だけど俺たちは3年間,砲弾を聞きながら眠ることに慣れっこになってたんだ。それが突然,静かすぎるほどの沈黙だ。そんな静かな中で,誰も眠れやしない。いや,無理にわかったような顔をしなくていい。これはお前にはわからない。経験した人間じゃないと,絶対にわからないんだ」
 ラディスラブさんの視線は,宙を見つめたまま動かない。
 「この戦争はな,宗教戦争や民族戦争なんかじゃない。俺はクロアチア人で,カトリックだ。だけど親戚にはムスリムもセルビア人もいる。ずっとそうやって一緒に暮らしてきたのに,宗教や民族が違うだけで俺たちが自分で戦争を起こすわけがない。戦争をして,誰か得をした人間がいたんだ。ただそれだけのことさ」
 眉間のしわが,いっそう深くなった気がした。
 戦争で得をする人は場合によって変わるけれど,一番損をするのはいつも変わらない。子どもと,一般市民である。この紛争で,ボスニアでは医療施設の3分の1から2分の1が破壊され,総病床数は35%減少し,数億ドル相当の医療機材が破壊されたと言われている。コシェボ病院では,国の保健状況を最もよく表す指標としてしばしば用いられる乳児死亡率が,戦前の1000出生数当たり15.8人から26.9人に上がった。死産,未熟児出生,先天奇形などの保健指標も軒並み倍増している。いま僕の手元には,国際協力事業団のボスニア全体の保健医療関連資料があるが,これを見るとコシェボ病院の数字が例外でないことがよくわかる。加えて,戦争で負傷しリハビリテーションを必要としている障害者は4万人から7万人,同じく治療を必要とするほどの重い精神的苦痛を経験した人は少なくとも人口の15%にのぼると見積もられている。ボスニアの国とその人々が戦前の状態に戻るのに,いったいどれくらいの月日がかかるのだろう。そもそも元に戻る日を僕は見ることができるだろうか。

世界は私たちを助けられたはず

 だが,市内で出会ったボスニア人少女の笑顔が,僕のそんな重々しい気持ちを少し楽にしてくれた。もうすぐ友だちとイタリアに旅行に行くの,というアイーダは高校を卒業したばかり。金髪で端正な顔立ちをした彼女が時折見せるはにかんだような笑顔は,周囲の雰囲気を和ませる。一方,彼女の友だちで医学部に進学したいというナージャからは,同じ18歳ながら快活で力強い欧米女性といった印象を受ける。戦禍を逃れてサラエボを去る人が多かった中,彼女たちは戦争中も家族とともにこのサラエボを離れなかった。
 「戦争中に何があったかをあなたに話すことはできるわ。でも,本当のことはここに住んでいなかった人たちには絶対にわからないと思う」
 ナージャがこう言ったとき,いくつものしわを刻んだ初老の男性の顔と,青春の真っ只中にいる18歳の少女の顔が,僕の中でふと重なった。
 「子どもや無実の人たちがたくさん死んでいったわ。どうしてあの人たちが死ななければならなかったの? ミロシェビッチはどうして今でもあんなに大手をふって生きていられるの? 世界はもっと私たちのことを助けられたはずだわ」
 陽気な彼女たちだが,戦争のことを話すときはやはり真剣な眼差しになる。だが,彼女たちは未来への希望を決して失っていない。
 「戦争が終わってからどんどん状況はよくなっているわ。問題はたくさん残ってるけど,5―6年もあればきっとボスニアは復興できると思う」
 巷には旧ユーゴ紛争の悲惨さ,解決困難な多くの問題,展望の開けない現状を描いた本があふれ,何やら絶望感のようなものを醸し出している。けれど彼女たちと話していると,僕のほうが勇気づけられているような気さえした。彼女たちの持つ生命力のせいだろうか。希望や誇りを,胸にしっかり抱きしめているからだろうか。
 「過去からは学ばないといけないわ。でも,私たちは過去に住んでるわけじゃないの」
 凛とした声で,アイーダは言った。 破壊されたままの建物。撤去されていない地雷。数多くの墓地。しかしそこには,倒れることなくたくましく生きる人間がいた。

僕らができることは何か

 旅は,きっと自分自身を見つめ直す時間なのだろう。それは1つには,多くの人が言うように異文化との比較によって自分を再認識できるからである。けれどもう1つには,自分とまったく異なった人たちの中に自分と同じものを見つけるからだと思う。
 ボスニアの人たちは,戦争によって重過ぎるほどの重荷を背負う羽目になった。ひとまず戦争が終わったとはいえ,喪失感や不安に苛まれないはずはない。それでも希望を持って生きていこうとするたくましい姿は,ちょうど僕の故郷神戸の人たちが,震災で大きな痛手を受けながらも前向きな明るさを忘れなかったのと似ている。
 それと同時に,無実の一般市民を悲劇の主人公にした加害者と僕たちとに合い通じるところがあるのも忘れてはならないだろう。旧ユーゴスラビアの人々は,50年前にナチスにもソ連にも屈せず自力で手に入れた共産主義というものを冷戦崩壊で失い,アイデンティティを失う危機に瀕した。経済の悪化も人々の不安に拍車をかけた。彼らは何か頼れるもの,不安を拭い去ってくれるものを探していたに違いない。旧ユーゴの一部の人たちが,危険なまでに高揚した民族主義や宗教意識にその役割を期待したとしても不思議ではない。外部の敵に対する憎しみを助長することで集団を結束させ,自分自身を守るという行動に出た彼らを笑うことはできない。そのことは,僕たちに身近な例を考えてみれば簡単にわかる。火事や地震が起きて自分の身が危険にさらされれば,自分だけが助かるために他の人を平気で突き飛ばすようなこともしてしまうのが,僕たちの悲しさではないだろうか。
 要するに僕が言いたいのは,旅行から帰ってきて外国と日本との違いを語る人は実に多いけれど,本当は人間は誰もみな似たり寄ったりなのではないか,ということである。日本にいても,核実験や戦争や金目当ての殺人などを「自分たちと違って」平和の意識を持たない人間の行為だと批判する声をよく耳にする。けれど自分のことを本当に正視すれば,僕たちは自分の中にも批判する他人と同じものを見つけるものだと思うのである。その証拠の1つは,聖書に書かれている。2000年前の昔も今も,人間は嫉妬,不安,恐怖,貪欲,憎悪,誠実,希望,愛情といった感情の間を揺れ動いている。どれかが一瞬顔をのぞかせたかと思うとまた他のものが取って代わろうとする。民族主義者の残忍さもボスニア市民のたくましさも,僕たち1人ひとりが自分自身の中に持っているものなのである。
 他の人から認められたい。愛されたい。自分をこの世でかけがえのない重要な存在だと思いたい。これらはすべての人間に共通した欲求だと僕は思う。それを求めて行動するときの表現の仕方に違いがあるだけである。本質は決して違わない。もっとも俗世に染まった僕などはその本質的ではない違いにおろおろと右往左往しがちだけれど,それでも僕は人間の本質を見つめ続けたい。そう強く思わずにはいられない。
 なぜサラエボのような場所に行ったのかと聞かれることがある。不謹慎かもしれないし卑劣かもしれないが,それはおそらく大きな苦しみや悲しみといったものに僕が好奇心を持っているからではないかと思う。人間の弱さを通して人間をもっと深く見つめたいという欲求が,僕をそういう場所へ向かわせたのかもしれない。
 カンボジアの農村で,トイレも電気も水道もない家に住みながら,混じりけのない笑顔で僕を迎えてくれたおじさん。経済封鎖下のイラクで,生活が苦しいにもかかわらず僕の落とした20ドル札をネコババせずに返してくれた若い女性。そして今回のラディスラブさん,アイーダ,ナージャ。2度と会うことはないであろう彼らのささやかな親切に応えるために,僕ができることは何か。その問いを,忙しい日々の中で忘れずに持ちつづけたいと思う。そして,患者さんの苦しみや悲しみを共有し共感しようとする姿勢を自分の中に育てることがその1つの答えなのかもしれないと,いま思っている。