医学界新聞

 

〈連載〉

国際保健
-新しいパラダイムがはじまる-

高山義浩 国際保健研究会代表/山口大学医学部3年


〔第10回〕カルカッタにおけるボランティア活動

捧げられた生涯

 マザー・テレサは1910年マケドニアに生まれ育ったアルバニア人である。そして,17歳の時にドミニコ修道会に入り,翌年はじめてインドの土を踏んだ。以後20年間,カルカッタの聖マリア学院で英語の教師をして,最後は校長にまでなっている。ところが,38歳の時に神の啓示を受け,スラム街の人々のために働こうと決意する。そして,1950年,“Missionary of Charity”を設立。1952年に有名な「死を待つ人の家」をカーリー寺院の隣に開設した。
 この時,マザーは次のように述べている。
 「この世の最大の不幸は,貧しさや病ではありません。誰からも自分は必要とされていないと感じることです」
 以後,彼女の活動は国際的な支持を得て広がりをみせる。カルカッタ市内にいくつもの施設を開設したのみならず,世界中の恵まれない人々にまでマザーの愛の手はさしのべられ,現在,東京の山谷を含む全世界80か所以上の施設が運営されている。
 献身的な活動が評価されて,彼女は1978年にノーベル平和賞を受賞しているが,その時のマザーのスピーチは次のようであった。
 「私はこの賞を受ける立場にはありません。しかし,世界中のすべての苦しむ人々に代わって,この賞を受けます」
 それからも変わることなく献身の生活が続けられ,1997年9月に,彼女は87年の生涯を閉じた。現在も遺体はカルカッタのマザーハウスに安置されている。愛ゆえに気高く,貧しい人々のために生涯を捧げられた聖者であった。
 今回は,マザーの活動拠点でもあったカルカッタでの,ボランティアとして参加する方法を紹介しよう。カルカッタには,今もなお世界中からボランティアが集まってきている。

マザーハウス

 カルカッタに滞在するほとんどの学生旅行者は,安宿街サダルストリートに宿泊している。ここならシングルでも1泊150ルピー(約450円),ドミトリーなら60ルピー(約180円)程度ですむ。そして,物価の安いインドでは1日の食費と交通費が,多くても200ルピー(約600円)はかからないので,1か月の滞在で3,4万円あれば十分ということになる。これに日本とカルカッタの往復の航空券が約10万円,そしてビザ代などを考えて15万円の貯金があれば,インドで1か月のボランティア活動が可能となる。
 さて,いよいよマザーハウスであるが,これはサダルストリートから歩いて15分ほどの位置にある。ただし,わかりにくい場所で看板などもないので,はじめて訪れようとする人はボランティア経験のある人に連れていってもらったほうがいいだろう。サダルストリートにいる日本人に声をかければ,そのうち見つかるはずだ。
 マザーハウスにたどり着くと2つの入口が見えるだろう。はじめの入口はマザーの遺体が安置されている部屋へと続いており,一般の弔問客用である。そして次の入口がボランティア用で,その木の扉の横には[MOTHER TERESA IN]と書かれた小さなプレートが埋め込まれている。
 ボランティア希望者は,ここから中に入りボランティア登録を行なうことになっている。また,朝7時にここを訪れると,ボランティアのための朝食(パンとバナナ,チャイ,コーヒーなど)が準備されている。この朝食の時間は各施設の活動予定を知り,他のボランティアたちとの情報交換をするうえで重要なので存分に活用したい。
 このマザーハウスを拠点にして,ボランティアたちは,それぞれ希望の施設へと散らばっていく。以下,それぞれの施設を紹介していこう。

ボランティアを受け入れる施設

カリガート
 「死を待つ人の家」として有名な施設。1952年に,マザーテレサによって設立されて以来,半世紀近くにわたり,カルカッタの路上で行き倒れている人々が運び込まれ続けている。
 ボランティアが働くのは8:00-12:00と15:00-18:00。仕事の内容は患者の食事と入浴の援助,そして手洗いの洗濯である。僕が働いた印象で言っても,午前の部は特に仕事量が多かったように思う。とりわけ洗濯は力仕事で,汗だくになりながら何十枚もの衣類やタオル,シーツを洗って絞らなければならない。

プレム・ダン
 前項で紹介したカリガートよりも比較的症状の軽い患者が入る施設である。男女それぞれ200名ほどが入院しており,規模はかなり大きいと言える。また,同じ敷地内に貧しい子どもたちのための学校が併設されている。
 ここへはマザーハウスから歩いて行ける(約30分)。ボランティア時間は8:00-12:00で,仕事内容は洗濯,掃除,入浴と食事介助で仕事量は多い。ただし,患者の多くが自分で動くことができるし,話もできるので,患者とコミュニケーションを取りながら楽しく働くことができる。

シシュババン
 「子どもの家」と呼ばれる施設で,障害を抱えた子どもたちを含め,50-60人の乳幼児がいる。
 ここへのアクセスは簡単で,マザーハウスの並びの道を徒歩で2-3分行った場所にある。ボランティア時間は8:00-12:00と15:00-18:00の2回で,仕事内容は子どもたちの食事介助,衣服の着脱,排尿の介助,そして子どもたちとの遊び。子ども好きのボランティアがはまる施設のようで,子どもたちに会いたいからと,毎日通っている人が少なくない。

ハウラ・シシュババン
 カルカッタのハウラ地区にある「子どもの家」で,5-10歳くらいの子どもが50-60名くらい入院していて,教育もここで受けている。養子がほしかったり,召使いがほしかったりする人が,時々訪れて子どもたちを連れて行っているようである。マザーハウスから遠い施設なのでボランティアは少ないが,仕事自体もあまりない。

シャンティ・ダン
 2つの施設が併設している場所で,1つは「子どもの家」,もう1つは「女性の家」である。
 「子どもの家」には,およその2歳以下の子どもたちが生活している。ここの子どもたちは健康で,やはり養子をもらいに来る人が訪れている。子どもたちの世話をするソーシャルワーカーが数人常駐しているので,ボランティアはその手伝いをすることになる。しかし実際には,子どもたちと遊んでいるうちにボランティア時間が終了してしまう。
 一方,「女性の家」は暴力を受けた女性や精神病の女性が入院する施設である。30-40人の入院患者がいるが,ボランティアの仕事はないようだ。ほとんどが見学で終わる。

ナボジュボン
 ダウン症や盲目など障害のある男の子たち,約20人が生活している。ここは他の施設と違って,シスターではなく,ブラザーによって運営されている。ボランティアも男性のほうが多いようだ。仕事内容は,洗濯と食事の介助,そして掃除である。
 ただし,毎週日曜日には100人近くのストリートチルドレンを迎え入れているために,ここの活動内容は平日とは異なったものになる。この日のボランティアは,きわめて腕白な彼らの体を洗い,きちんと整列させて食事を提供する。

逆境を生き抜く子どもたち

 僕が日曜日のナボジュボンを訪れた時は,医学生ということもあって,怪我をしているストリートチルドレンたちの治療を任された。確かに,裸足で走り回る彼らの足は傷だらけで,ひどい子は5cm近くも皮膚がめくれていたり,傷口が盛り上がるほどに化膿している子もいた。
 まず,僕は与えられた薬棚のチェックから始めた。オキシドールとヨードはすぐに見つかった。これで消毒はできる。抗生剤の塗り薬もかなりあった。あとは実のところ,僕には使えない薬ばかりであった。
 あちらこちらの国から援助されたのであろう,多彩な薬があるにはあるのだが,商標名しか書かれていなかったり,成分表示がドイツ語,フランス語,中国語などだったりで,誤用が怖くて使うことができない。日本製の医薬品も,日本語しか表示されていないため,世界各地に援助物資として送られながらも,結局,現地の医師が使うことができないままになっているケースが多いという。その逆の体験を僕がすることになるとは,予想もしていなかった。
 結局,いろんな薬箱をひっくり返したりしてみたが,出てくるのは抗生剤ばかり。苦労して解読してみれば「日焼け止め」などという,嫌味としか思えないものも入っていた。 実は,僕が懸命に探しているのは「バンドエイド」,もしくはガーゼとテープなのである。しかし,この基本的な物資がほとんど見つからなかった。目の前には20人ほどの子どもたちが群がり,傷口を示しながらギャーギャー言っている。この混乱した状況で,結局,僕はトリアージ(治療する患者の優先順位の決定)を余儀なくされた。
 子どもたちの中を見てまわり,傷口のひどい子を抱えて即席の治療台へと連れて行く。この時に傷口が泥で汚れている場合は,自分で洗って来るように指示をし,一端その子は後回しにして次の子を探す。傷口を消毒し,必要なら膿を出して抗生剤を塗る。そしてガーゼを貼り付けてテープで固定する。そしてまた,次の子を探しに行く。
 この方法は,群がる子どもたち,とりわけ前のほうで待っている子どもにとっては不公正なことと映ってしまうようだ。そもそも,路上のサバイバルをもって人生としている彼らである。日本のへなちょこ学生の言うままに,おとなしく従っているはずがないではないか。彼らは僕に怒鳴り,割り込み,薬を持ち去ろうとしたり,ありとあらゆる反抗を試みた。小さな子は,傷口を示しながら「治して! 治して!」と哀願するように,僕の手にしがみついてくる。
 確かに,その傷口は小さいかもしれない。しかし,化膿し悪化し続け切断を余儀なくされたり,それがもとで破傷風に感染して死の危険にさらされたりする可能性はある。そして彼らは,仲間たちの経験から,そのことをよく知っているのだ。
 そう,僕にとっては何気ないトリアージも,彼らにとってはサバイバルそのものなのである。それはわかっている。それでも僕は治療しながら,後回しにする子どもたちを怒鳴りつけ,時には威嚇し,追い払い続けていた。