医学界新聞

 

 Nurse's Essay

 シーッ!

 久保成子


 友人の母親にボケ症状が現れたと報せを受けたのは,一昨年の師走のことだった。ところが今年2月初旬,記憶に多少の難があるものの,ボケ症状が消え,対人コミュニケーションも平常に行なわれるようになったと電話があった。最初の報せに「まさか,あの方が……」と驚いた私であったが,「正常に戻った」という報せはさらなる驚きであった。
 2月下旬に,かの夫人とお会いした。84歳の夫人は,息子の友人である私ににこやかに挨拶をしてくれた。
 夫人の辿ったこの1年余りの軌道を簡単に整理すると次のようになる。
A:夫人の親しい友人が急逝し,かなり気落ちをしていたところに,帯状疱疹とかなり高熱を出して病院に入院した。そこは4人部屋の病室で,夜間に大声で同室者と話していて看護婦に注意を受けた(同室者はお年寄りで難聴がある)。そんなことが2度あったが,その2度目の時に,看護婦は夫人に向かって「シーッ!」と口に指をあて「うるさくすると退院してもらいますよ」と言った。それ以後,夫人は看護婦と同じしぐさで「シーッ!」と指を口にあて,硬く口を結び声を出さなくなってしまった。
B:その後,1週間で食事介助,オムツを必要とするまでになってしまった。しかも,看護婦の世話を拒否する。退院時には,時間の区別もつかず,夫人の姉妹や他の子どもが見舞いに来てもプイッと顔を背け,口は硬く閉じたままで息子以外に世話はさせようとしない。
C:退院後,特養ホームに週の前半3日間預け,後半を自宅で世話をする生活が始まるが,息子の健康が害なわれてしまい,特養ホームに入所となった。だが,特養ホームに入所して2週間が経過したところで,突然に夫人が口を開き,息子や介護福祉士と話をし始めた。
 夫を亡くし,嫁と折り合いが悪かった夫人は,会社勤務の息子に負担をかけるわが家での生活が苦痛だったに違いない。ホームに入所したことで,自らの安定を得たのではないだろうか。楽しげに食事をし,車椅子の移動で自室を出入りし,歩行訓練も始めている夫人は幸福そのものに見えた。
 人間の心の仕組みは不思議だ,とつくづく考えさせられる出来事であった。