医学界新聞

 連載

「WHOがん疼痛救済プログラム」とともに歩み続けて

 武田文和
 (埼玉県県民健康センター常務理事・埼玉医科大学客員教授・前埼玉県立がんセンター総長)


〔第3回〕がん・痛み・モルヒネ(3)
動き出したWHOプログラム

突然のWHOプログラムへの協力要請

 Swerdlow教授とLipton博士のお世話をすることになった私は,2人を埼玉県立がんセンターにも招いた。医局勉強会での講義,病棟や手術室など院内各所の案内の後に私の部屋に戻った時,Swerdlow教授が,「厚生省の人に電話したい……」と申し出た。漠然とした話なので,どういう用件なのかと聞き返すと,「WHOは世界のがん患者を痛みから救うためのプログラムの策定に着手した。日本からも参加と協力を得たいと,WHOからお願いの書簡を送ったのだが,未だに返事が来ていない」と言うのである。
 Swerdlow教授は,英国の麻酔とペインクリニックの先達の1人で,がん疼痛に関するWHO本部のコンサルタントでもあった。そこで,私は厚生省の担当審議官に電話をつなぎ,事情を伝えてSwerdlow教授と話してもらった。途中から代わった私は,審議官から「どう対処すべきか判断しかねているので,A大学のB教授に取り次いであげてほしい」と逆に依頼された。そこでB教授に電話をすると,「がん疼痛には関心がないからC大学のD教授がよいのでは」とおっしゃる。このD教授も期待した返事をしない。突然,Swerdlow教授は,「この埼玉県立がんセンターが協力してくれないか」と言い出した。というわけで,「できることから協力しましょう」ということになったのである。

がん疼痛と治療成績のサーベイ

 そして1か月後,WHOから公式書簡が届いた。プログラムの第1段階として各国のがん疼痛とその治療のサーベイを行なっているので,「埼玉県立がんセンターでの現状調査から着手してほしい」との依頼であった。しかもいくつもの国に依頼しているが,なかなか回答が戻ってこないので,調査結果を急いでほしいとのことであった。
 そのような理由もあって,1977年夏のある日を定め,埼玉県立がんセンター入院中の全患者について調査を行なった。その調査の結果,改善を急ぐべき状況が把握できた。がんとの診断が確定している261名のうち痛みのある患者が57名(22%),進行がん患者139名(261名中の53%)のうち痛みがある患者が49名(35%),痛みのある進行がん患者の半数は痛み治療中にもかかわらず,1日の大半にわたり痛みを訴え続けていることがわかったのである。そして治療内容は非オピオイド鎮痛薬28%,ペンタゾシン15%,ペチジン7%,モルヒネ2%,硬膜外ブロック12%,脳下垂体アルコール注入法5%などであり,治療により痛みの完全消失に至った患者はわずか23%と低率であった。
 WHOへの回答は,日本の他にブラジル,イスラエル,インド,スリランカの4か国にとどまり,がん疼痛への関心が世界的に低いことを象徴していると,WHOは受け止めた。これらの発展途上国のがん患者では,日本やイスラエルよりも高い率で痛みが発生しており,進行がん患者の半数以上が激痛を訴え,完全除痛はわずか10%,29%で痛み治療はまったく効果をあげておらず,4-7%は痛みへの対応を受けていなかった。現状は推定されていたが,サーベイによって具体的に示されたのである。
 このような著しい治療不振は,他の多くの国々に共通したものであり,その改善は緊急な世界的課題と認識された。

がん疼痛治療に関するWHO協議会

 1982年10月,10日後にミラノ郊外のエルバ村で協議会を開くので出席するようにとの連絡(指示)が,WHO本部から電報で届いた。実は,この協議会でWHO方式がん疼痛治療法が起案されたのであるが,私はこの会議の内容を説明されぬまま,気軽な気持ちでWHOから指定された便でミラノに向かった。
 ミラノ空港から車で1時間半ほどでアルプスの麓のエルバ村に着いた。ホテルは11世紀の古城を改造した由緒あるものであったが,隣のレストランに行くのに車で10分もかかるという静かすぎる村であった。
 協議会開始前夜に,ミラノ市内のFloriani氏という,私にとってはまったく未知の人の邸宅での晩餐会に招かれた。その晩餐会の主賓は国際疼痛研究連合(IASP)会長である米国ワシントン州立大学John Bonica教授,幹事役はミラノ国立がんセンターのVentafridda教授,招かれたのは10数名,日本人は私1人……。そこに会した方々を表に示すが,はじめて会う人たちがほとんどだった。
 Floriani氏はミラノの富豪であり,がんの激痛に苦しんだままの肉親を失った悲しみから,がん疼痛対策を支援する研究財団を主宰しており,WHO協議会のスポンサー役を果たしているとわかったのは晩餐会がかなり進んでからであった。Floriani邸は,かつて世界的な指揮者として知られるトスカニーニが住んだ家で,トスカニーニが使ったピアノがそのまま置いてあった。明日からは,覚悟を改めてかからねばならない,と緊張するばかりの幕開けでもあった。

この項つづく

●WHO協議会出席者(1982年10月14-17日,エルバ村にて。ABC順)
招集された参加者
Dr. J Birkhan(Rambam大・イスラエル)
Dr. J J Bonica(ワシントン州立大・米,国際疼痛学会代表)
Dr. P B Desai(Tataメモリアルセンター・インド)
Dr. K M Foley(Sloan-Ketteringがんセンター・米)
Dr. M Martelete(Porto Alegre病院・ブラジル,国際疼痛学会副会長)
Dr. A Rane(Huddinge病院・スウェーデン)
Dr. M Swerdlow(ホープ病院・英,座長)
Dr. F Takeda(埼玉県立がんセンター・日本)
Nurse F R Tiffany(王立マースデン病院・英)
Dr. R G Twycross(ザ・チャーチル病院・英)
Dr. V V Ventafridda(イタリア国立がんセンター・伊)
会議事務局担当者
Dr. F van Dam(オランダがんセンター・オランダ)
Dr. R Gelber(WHO指定研究協力センター,ハーバード大・米)
Dr. K Stanley(WHO本部)
Dr. J Stjernsward(WHO本部)
Dr. B Wessen(WHO指定研究協力センター,ハーバード大・米)
オブザーバー
Ms M C Cone(世界製薬業協会連合会・スイス)