医学界新聞

1・9・9・9
新春随想

基礎科学と社会

森脇和郎(国立総合研究大学院大学副学長)


 近年,医学生物学領域における遺伝学の進歩によって,ヒトを含む生物の持つ正常な機能と構造およびそれらの異常としての病気の発生が,基本的には遺伝子の支配を受けているらしいという事が明らかになってきた。一方,遺伝子操作技術の発展によって特定の形質を支配する遺伝子をDNA分子として単離することができるようになり,さらに胚操作技術の発達によりこのDNA分子をマウス胚に注入して個体レベルで発現させることもできるようになった。言うまでもないことであるが,今世紀医学生物学領域における最大のブレークスルーといってよいこれらの成果は一朝一夕にしてできたものではなく,分子生物学や生殖生物学分野における地道な基礎研究によってもたらされたものである。
 最近,国も基礎研究を重視するようになったのか,科学技術基本法が制定されて以来,医学生物学領域においても業績のある研究者は比較的高額の研究費を得ることができるようになり,20―30年前に比べると隔世の感がある。しかし,それらの研究費の多くが国のお金であることを考えると,以前のように大きな国費が基礎科学に投入されることのなかった時代にはあまり問題にされなかった「説明責任」とでもいうべきものが基礎科学分野の研究者に要求されるようになる。それはマスメディアを通じてのこともあり,地域社会との交流という形のこともあり,あるいは行政側から求められる場合もあろう。いずれにしても,元々は知的好奇心に発する基礎科学の意義を,知的興奮を与え得るような人類の知的資産の蓄積とか,人類の健康・福祉や産業の発展等に対する長期的に見たときの貢献の可能性という視点から社会を納得させることのできる説明あるいは主張をすることが必要であろう。この視点に立てば,基礎科学は近い将来に社会への直接的な貢献はしなくても,社会と隔絶したものではない筈である。社会の側もその成熟に伴って,高度の知的興奮を得ることに価値を認めるようになろう。このことは,音楽,絵画等の芸術の分野を見れば明らかである。

研究支援体制の問題

 基礎科学と社会というキーワードについては研究支援体制という見地からも考えるべき事がある。1つの例として医学生物学領域における基礎科学と実験動物との関係を考察してみる。最近爆発的な発展を遂げた遺伝子導入動物の開発育成はもちろんのこと,従来から営々として続けられてきた実験動物の開発維持や品質管理は医学生物学の先端的基礎研究を支える重要なパラメディカルサイエンスである。それにも関わらずこの分野で働く人々は必ずしもその技術に見合うだけの処遇を受けていない。西欧諸国では高度の技術を持って研究支援に携わる人々は,ときに専門の研究者より高い給料を得ている場合もある。しかし,より本質的な問題は,高度の技術をもって医学生物学領域の基礎研究を支援する立場にある人々の「社会」を確立することであろう。このことは,医学系の大学や研究所より民間企業のほうが進んでいるように見える。ともあれ,自分の名前で研究業績を発表することのできる人々が1つの社会を形成しているように,高度の技術をもって支援体制を形作っている人々にも世間から認められる「社会」が必要である。このことは実験動物の分野だけではなく,大型の分析器械を操作する技術者,情報科学の分野におけるコンピュータ技術者等に共通しており,基礎研究者の側も一緒に考えなければならない問題である。