医学界新聞

<新春インタビュー>李啓充氏

『市場原理に揺れるアメリカの医療』を語る


李啓充氏
1980年京大医学部卒。天理よろづ相談所病院でジュニアレジデントとして臨床研修を終了後,京大大学院で癌研究に従事。1990年よりマサチューセッツ総合病院(ハーバード大医学部)で骨代謝研究に従事し,現在ハーバード大学助教授
 2年間にわたり本紙に連載され話題を呼んだ「市場原理に揺れるアメリカ医療」が完結し,この度,大幅な加筆修正のうえ単行本『市場原理に揺れるアメリカの医療』(医学書院刊)として刊行された。そこで,本紙では著者である李啓充氏に連載を振り返っての感想,米国医療の今後などについて話をうかがった。


――連載を終え,単行本『市場原理に揺れるアメリカの医療』を出版しての感想は?
 最も驚いたことは,読者の関心の高さです。さまざまな反響をいただき,それが励みとなって書き続けることができました。 研究者は,重要な文献,最新の文献を選んで,研究者仲間に紹介するジャーナルクラブというものをやりますが,米国医療の話題について,背景を考え,意味づけをしていくという本連載は,まるで紙面上でジャーナルクラブをやっているようでした。
――連載中に苦労されたことは?
 苦労はあまり感じませんでしたが,読んでおもしろいものを書くように心掛けました。興味深い題材があっても,話としておもしろく書けるように煮詰まるまでは寝かせておきます。そして,その題材についてアイロニカルなものが見えてきた時に書き出す場合が多かったように思います。ある制度や事件について,いろいろな角度からの見方ができるようになって初めてアイロニーというものが見えてくるのではないかと思っています。つまり,ある題材について善悪というような単純な基準で見るのでなく,ある程度普遍的な意義が見えてきた時に初めて物語化の作業に取りかかったような気がします。

変貌する医療を的確に捉えるには

 また,ただ状況がアソシエイトして同時期に起こったものを,それが因果関係だと混同してしまわないようには注意を払っています。アソシエイトした現象を因果関係とみなした議論の展開は科学論文でも多く,自分が人の論文を審査する時にも厳しくチェックするようにしています。
 例えば,短期集中連載「DRGが米国医療に与えたインパクト」(本紙2312-2316号に掲載)でも紹介しましたが,DRG/PPS(Diagnosis-Related Groups/Prospective Payment System)導入後に起こった変化のすべてがDRG/PPSの導入に起因するわけではないのです。しかし,あたかもそこに因果関係があるように見えてしまうことがあります。外来手術の拡大などについては,医療警察であるPRO(Peer Review Organization)が特定疾患についての入院事前審査を通じて外来手術を奨励したことが直接の原因であり,DRG/PPSによって外来手術が拡大したわけではありません。
――PROの活動はほとんど日本では紹介されてきませんでした。なぜでしょう?
 PROに関する情報はすべて公開されており,その気になればすべて収集可能です。ただし,DRG/PPSに関する論文をチェックしただけでは,PROが何をしたかは理解できませんでした。むしろ,ボストングローブやワシントンポスト,ニューヨークタイムズなどのバックナンバーをマイクロフィルムで調べるという,手間のかかる作業の中で初めて何が起きていたのか,何が問題だったのか,ということがわかってきました。それを踏まえてまた論文に戻ると,内容がよくわかりました。
 PROの活動はコスト削減に偏重していると批判され,現在支払い審査は行なわれていません。ウェブサイトや新聞記事を検索してもPROに関する話題は見つかりません。PROは米国医療に後戻りできない影響を与えましたが,現在はその活動が影を潜めてしまったため,見えなくなってしまっているのです。しかし,何が今日の状況を招いたのかということを正確に捉えるためには,見えなくなってしまっている歴史を遡って検証していく作業が不可欠です。

今後の医療の展開

――今後の米国医療の行く末は?
 市場原理により,強者がますます強くなっていく,そうなると,どうしても弱者が弾き飛ばされることになっていきます。今それに対する揺れ戻しが起こっているのです。『市場原理に揺れるアメリカの医療』の最終章では,医療者が,患者のために立ち上がったという今日の展開を描きましたが,それ以前に,アメリカでは患者の権利意識が非常に強い。また,本音はともかくとして,米国医師会や病院協会も患者の味方ということを全面に謳わないとなかなか世論の支持が得られないという状況があります。市場原理による医療ビジネスが発展していく対極で,ますます患者本位の医療を追求する動きが続いていくと思います。
 ジョージ・アナス(生命倫理学者・法学者)によれば,アメリカの医療保険制度の歴史は,平等主義者と市場原理主義者の対立を軸に展開されてきたということですが,それは今後も続いていくと思います。ただし,今以上に激しい変化が起こっていくと思います。この数年間にも,かつて誰も予測できなかった事態が次々と起こっているわけで,「米国医療はどうなるか」と問われてもお答えするのは難しいのが正直なところです。しかし,米国ではさまざまな実験的な政策が行なわれているので,そのデータを解析していくことは,例えば,日本の状況に当てはめられる改革は何かなどを考えるうえで有益なのではないかと考えています。

日本の医療マネージド・ケアの効能

――日本医療の問題点は?
 最大の問題点は,患者アドボケイト(患者の権利を守る人,患者の味方になる人)の立場に立って改革を考えている人がいないことです。財政の帳尻ばかりが前面に出て,医療保険体制がパンクするという話ばかりです。どうしたら患者さんによりよい医療を提供することができるのかという医療の質の改善という視点が不十分です。 
 また,米国から見ていますと,日本の制度は医療と福祉と介護の別があり,非常に奇怪な制度のように感じます。米国では,急性期ケア・回復期ケア・長期ケアの別はありますがすべて医療です。個々の患者さんにとってはケアの継続性が最も重要なのに,日本ではある場所からある場所に移るとそこは医療でなくて福祉というようなことが起こり,行政の縦割りのせいで大切なことが忘れられているような気がします。
――米国流のマネージド・ケアが日本で注目される理由の1つが,その医療費抑制効果です。その実際は?
 今日までは,マネージド・ケアで医療費上昇が抑制されたと言われてきましたが,財政が悪化している医療機関や保険会社がほとんどで,本年度は軒並み10%程度の保険料の値上げを考えているということです。本当にマネージド・ケアの手法に医療費抑制効果があるのか。あるいは今まで示されてきた医療費抑制効果というのは,単に価格交渉力を背景に病院や医師に値引きを迫ってきた結果なのか。答えが出てくるのは,実はこれからだと思います。

臨床との接点

――『市場原理に揺れるアメリカの医療』では,数多くの具体的な臨床場面が紹介され,医療現場にどのような激変が起こっているかがよくわかります。読者の多くは著者は臨床家だと思っているようですが。
 8年前までは臨床の内科医でした。現在,米国ではライセンスがないので患者さんを診る立場にはありませんが,自分では本来,臨床家だと思っています。今回の連載は私にとっては臨床との唯一の接点だったように思います。患者さんのために日本の医療を改善する余地はたくさんあります。そういった意味で私が書いたものが何らかの影響があったのなら,それは著者冥利に尽きると思います。
――本業の研究について。
 副甲状腺ホルモン関連ペプチドと呼ばれる物質の生理的作用,特に内軟骨性骨化の制御ということを研究しています。今度『インフォームド・コンセント』(ニール・ラヴィン著,学会出版センター刊)という1983年に書かれた小説を翻訳しましたが,実はその小説の主人公たちが副甲状腺ホルモン関連ペプチドを癌患者の腫瘍から精製しようとします。私自身は翻訳を始めた10年前には今の仕事とは全く関わりがなかったのですが,今,小説の主人公たちがやっていた研究を自分がやっているということになります。非常に不思議な因縁です。ラヴィン氏がイエール大学で臨床のフェローをやっている時に書かれた小説で,インフォームド・コンセントとはどういうものか,どうあるべきかということが小説の題材になっていますので,医療関係者だけでなく一般の読者にもぜひ読んでいただきたいと思っています。

レッドソックス

――今後,執筆してみたいテーマは?
 今いちばん書きたいのは,大リーグ物です。ドラマチックな話がたくさんありますから。
――ボストン・レッドソックスの大ファンと聞いておりますが。
 ボストンに住んでいますから,もちろん地元意識もありますが,レッドソックスについて書かれた本というのは,非常にインテリジェンスの高い人が書くことが多く,読んでいておもしろいのです。レッドソックスがいつもいいところまでいきながら負けるということについても,「レッドソックスはキリスト教のカルビン主義を体現している。神様はレッドソックス・ファンに次々と試練をお与えになっているのだ」というようなことを,元イエール大学長で大リーグコミッショナーになったジアマッティは書いています。自分たちの悲劇を笑い飛ばすような知的遊びもレッドソックス・ファンの楽しみの1つです。
 なにしろ可哀想でなりません。1918年から,80年も優勝していないのです。80年というのはどれだけ長いかというと,米国男性の平均余命が72歳です。ピーター・ギャモンズという有名なスボーツジャーナリストがいますが,彼のお父上が今わの際に残した言葉は,「お前らが生きている間にレッドソックスが優勝するといいな」でした。すでに自分のお墓をつくっているあるコメディアンは,その墓に「死因,ボストン・レッドソックス」と書いています(笑)。とにかく,魅力溢れるチームです。また機会があったらご紹介していきたいと思っています。尊敬する作家である山際淳司さんも亡くなられてしまった今,その後を継ごうかと勝手に考えています(笑)。
――ありがとうございました。