医学界新聞

アメリカ留学日記(4)

ペンシルベニア大での臨床研修を振り返る

長浜正彦(日本医大6年)


ケースプレゼンテーション

 最近になって私は,平均2人の患者を受け持つようになった。入院患者の回転の早いアメリカでは,これは週3件ほどのコンサルトをこなしていることを意味するが,毎回行なうアテンディングへのケースプレゼンテーションは何回やっても難しい。アメリカの学生にしてみれば,診断よりどういうアセスメント,プランを述べるかが最も重要であり,頭を悩ませるところである。しかし私の場合は,そこに行き着く前に,このケースをどうわかりやすく英語で伝えるかということに焦点が絞られる。
 メモなどは見ずに自分の患者の報告をすることが好ましいとされており,以前はコンサルトシートを読みながら報告していた私も,最近は何も見ないで報告することに挑戦している。初めは,症例や英語を暗記しなければいけないのかと思っていたが,そうではないことがわかってきた。自分の患者のイメージを頭の中に描き,それをアメリカ式の症例報告の順に述べていけばよいのである。
 これは何も患者の症例報告に限った話ではなく,実はこの方法は学生のプレゼンテーションで気がついた。毎回,あるテーマに関して発表するわけだが,原稿や英語を暗記するのは不可能だし,そうやって発表すると,自分の言葉でなくなってしまうことが多い。自分の理解したことや発表の流れを頭の中にイメージとして残し,自分の英語で話すということがとても重要である。しかし,実際にこれができるようになるには,それなりの訓練が必要であり,私も症例報告を中心に,現在も訓練中である。自分の受け持ちでない患者に関する報告でも,メモを取らずに頭の中にイメージを作りながら聞き,それをもとにディスカッションに参加している。
 さて,肝心のアセスメント,プランであるが,学生が必ずしも正しい診断や治療方針を述べられるとは限らない。しかし,アメリカでは診断が正解かどうかよりも,その診断を導き出した考え方の道筋が重要視される。以前,私はどうみても糖尿病性腎症の診断の患者に対して,腎前性の病因を鑑別せずに,いきなり治療のプランを述べてしまったことがあった。すると,この患者に心不全の既往があり心駆出率が15%であるのに,なぜ腎前性の病因を否定しないのかと強い口調で叱られた経験がある。アメリカでは,頑張りさえすれば基本的には誉められることばかりで,ほとんど叱られた経験のなかった私にはとても強い印象として残っている。これ以後はどんなにやさしい症例でも腎前性,腎後性の鑑別をすることは忘れられなくなった。

常に臨床と結びついた実践的な教育

カンファレンス

 アメリカでカンファレンスと言えば“食事”である。アメリカのカンファレンスは大概,朝の8時とか昼の12時に設定してあって食事付きだからである。この食事については後で詳しく述べることにして,まずアメリカのカンファレンスが日本とどのように違うか述べてみたい。
 腎臓内科としてのカンファレンスが毎朝8時から始まる。これには学生からレジデントやフェロー,アテンディングに至るまでがたいてい出席する。内容は,私がついていける程度の電解質異常の話であったり,私にはレベルの高すぎる分子生物学の話であったりと,多岐に富んでいる。回を重ねるごとにだんだんと難しくなってきているが,たとえ内容についていけなくても,ディスカッションの英語を聞くだけで十分意味があると思い,毎回出席している。
 よい講演者ほど導入がうまく,素人でもわかるようなところから話が始まる。そして,教授クラスのアテンディングからレジデント,時には学生までもがよく質問する。私の場合は,たとえ日本語であったとしても,「的外れな質問をしたらどうしよう」などと思ってしまうところであるが,アメリカ人はそんなことお構いなしに質問は飛び交う。これは,単純に私がディスカッションに不慣れであるという理由と,日本がなんでも叱って教育するのに対してアメリカはまず誉めてから間違いを訂正して教育するというところにも起因すると思う。私から見ても,少し的外れな内容と思える質問に関しても,講演者は「私が気づかなかった点を指摘してくれてありがとう」と必ずフォローをし,決していい加減な対応はしない。つまり,話す側の人も質問をしやすい雰囲気を作るのである。
 腎臓内科ローテート中の学生(3,4人)のためだけのカンファレンスも週に3回あり,いろいろなテーマで講義がなされる。ここでも先生が指名するまでもなく,誰もが自由に発言して話が進んでいく。私が初めてこのカンファレンスに出席した時は,話の内容にも英語にもついていけなかったが,最近はほぼ完璧についていけるようになった。3か月間腎臓内科で実習した私は大概の質問には答えられるのだが,カンファレンスのペースを乱さぬよう,あえて誰もが黙ってしまった時にだけ発言している。このあたりが謙虚な日本人である。しかし,この発言するという行為は簡単そうだが,医学的にも,そして英語(特に発音)にも,かなりの自信がないとできないものである。ペン大の学生は,難しい質問には必ず答える最近の私を見て,日本の医学生のレベルは高いと勘違いしてくれているに違いない。
 カンファレンスで日本と最も異なった印象を受けるのは,たいていのカンファレンスが「低ナトリウム血症とは……」という教科書的な話でなく,ケースプレゼンテーションから始まるということである。「54歳の男性が呼吸困難,易疲労感,浮腫を主訴に来院。身体所見,血液生化学は以下の通り。何を考える?」といった具合である。学生はさらに自分の知りたい検査値や所見を質問して診断に近づいていくわけである。そして,教科書的な知識は多少あるはずの私は,こういう実際に患者を想定した質問には弱い。特に,「それではこの患者に対して何の薬をどういう要領で投与して治療するのか」といった類の質問は,アメリカの医学生にとってはごく当たり前に答えることができ,彼等自身も薬の投与方法とか,検査の優先順位などに関する実践的な質問をよくする。私にはそういう問題に答えるのが一番難しい。彼等の頭の中には,常に病棟にいる“患者”があるのであって,○×式の“試験問題”があるのではない。
 さて,アメリカのカンファレンスの大きな目玉,食事について述べよう。アメリカではカンファレンスルームへ行くと必ずといっていいほど食事が用意されており,みんなカンファレンス中に平気でムシャムシャ食べている。朝はドーナッツやベーグルにコーヒーで,昼はサンドイッチやピザという具合である。したがって病院内にいる限り,食べるものには困らない。ときどき「ドラッグランチ」と呼ばれる豪華な昼食があるが,これは文字どおり製薬会社提供の昼食である。日本と同様,広告入りのペンやら薬の本やらたくさんくれるので,私の白衣のポケットは製薬会社の方にいただいたもので満たされている。
 日本でカンファレンス中にものを食べる経験のない私は,最初のうちはどうも講演者に悪い気がしてカンファレンスが終わってから食べていた。しかし,アメリカでは時間節約のためにカンファレンス中に食事を済ませるのであって,カンファレンスが終われば,皆さっと仕事に戻ってしまい,食べていると置いていかれる。カンファレンス中にものを食べること自体の良し悪しは私には判断しかねるが,時間の節約(私にとってはお金の節約)という点ではとてもよいシステムだと思う。忙殺されているレジデントは,カンファレンス中に食べる機会がないと食事抜きになってしまうだろう。今ではカンファレンス中に食べることには,すっかり慣れてしまい,私が毎回欠かさずカンファレンスに出席するのは食事にありつくためでもある。

アメリカの教科書と日本の教科書

 日本から日本語の教科書を持って来たが,こちらでは基本的に英語の教科書を使っている。同じ内容ならば日本語の方がわかりやすいに決まっているのが,私は主に英語の教科書を使っている。その理由は2つある。1つは,医学用語は日本語より英語で頭に入れておいたほうがとっさの時にスッと出てくるのでその方が便利だということである。キーワード1つが出てこないためにディスカッションで苦労した経験は何度もある。
 もう1つは,アメリカの教科書のほうが優れているということである。これは,特に病態生理について書かれている本に関して言える。日本の教科書と決定的に違うのは,巻末には必ず症例が載っており,基礎医学を実践的な臨床の現場と結びつけて説明してある。これがあると理解が深まるし,強い印象としても頭に残る。そういう教科書が日本語で書かれていれば,当然,私はそちらを読みたいが日本には少ない。日本で臨床内科を病態生理にそって最もわかりやすく書いてある教科書は,偉い先生方があまり推薦しない“チャート内科学”だと思う。
 そういうわけで,卓上で問題集を解いているだけなのに,こういう教科書は実践的な状況設定が書いてあるお陰で,実際に患者を診ているかのように感じて勉強しやすい。例えば,まず,「20歳の女性が嘔吐,疲労感,過呼吸,頻脈,血圧150/98で入院。彼女はI型糖尿病にもかかわらず,最近はインシュリンを定期的に摂取していなかった。血液生化学,血ガスは以下の通りである。鑑別診断をあげ,どういう検査をするのか述べよ」という質問があるとする。問題に沿って治療を開始すると,「治療開始3時間後,患者は呼吸困難を訴え,血糖値は以下の通りであった。どうするか?」となる。そして圧巻なのは,問題集で正解として疾患の治療を開始したにもかかわらず,それは間違いであり,「これは臨床でよく遭遇する問題なので,この治療をする時はこの検査値を必ずモニターせよ」といった教訓が書かれている。
 このようにして,私も常に病棟にいる患者を想定して勉強しているつもりであるが,日本でついた悪い癖で,無意識のうちに,今でも病態生理の理論と実際の臨床のケースを切り離して考えてしまうことがあり,せっかく理解した理論を臨床の場に活かせないことが多い。

アメリカの図書館

 アメリカには,大学は「勉強するところである」という当たり前の認識がある。医学部に限らず学生が勉強するための環境が日本に比べてよく整っているように思う。図書館がその代表例である。学部ごとに図書館を持っていることもあり,医学部だけで立派な図書館があるが,大学の中央図書館は7階建ての巨大なもので,蔵書数は莫大である。この大学の中央図書館には日本文学のエリアもあり,夏目漱石から,吉本ばななまでそろっているという充実ぶりで,日本の小さな図書館に行くよりもよいかもしれない。各階には40台ほどのコンピュータがズラリと並ぶコンピュータルームがあり,学生たちは自由にインターネットにアクセスできる。キーボードを叩く音が響きわたるその部屋の中で学生たちは文献を検索し,レポートを書き,Eメールを送っている。プリントアウトは何枚でも無料だし,検索した文献が図書館内に見つからないということはまずない。なければ無料で取り寄せてくれる。基本的に朝の8時から夜の12時までやっており,中央の図書館では1日23時間学生に開かれている。夜中の図書館は多くの学生で溢れ活気に満ちている。
 アメリカの学生は,いわゆる合コンだの飲み会だのといった遊び方はせず,日本の学生に比べるとよく学び,大自然の中で健全なスクールライフを送っている印象を受ける。スポーツのクラブに属する学生も,実況放送中にその学生の平均点が公にされ,インタビューを受けた時には理知的な答えのできる学生が多い。

アメリカへ留学する意義

アメリカでのレジデント

 アメリカのレジデンシープログラムを現場で見ていると確かにすばらしいという印象を受ける。私にとって何が魅力的かというと,レジデントを終了するとそれが何科であろうと,大概のことには幅広く対応できる医師になっているということである。これは,レジデントの研修が1つの科や1人の教授のもとで行なわれるのではなく,検査室を含めた病院のすべての科を含めて行なわれるからであると思う。また,アメリカでは,同じ病気について教育を受けるにも,その病気の病態生理が重視され,基礎医学の知識を駆使して長いディスカッションを経ることとなる。このようにして医学を勉強すると,丸暗記しなくても病気の本質がよく理解できる。できることならアメリカでそのようなレジデントの教育を受けてみたいとも思うが,言葉もシステムもレベルも違うこの国でレジデントの教育を受けることには正直,躊躇してしまうのも事実だ。
 われわれ日本人にとって,言葉の問題も大きいが,それ以上に難しいのはアメリカに来て日本と異なるアメリカのシステムに順応することである。すでに述べたように,先月一緒にローテートしたコロンビアの医学生イザベラは,自国でもアメリカ式の教育を受けているので,システムの違いに順応する必要がなく,比較的スムースにアメリカに溶け込んでいけるだろう。臨床の場で,日本で教育を受けた者がアメリカの病院でアメリカ人と対等にやりあうのは不可能であると思えるほど,彼らとわれわれとのスタートラインは違う。医学に携わる“効率”という面からみると,少なくとも初めのうちはアメリカで臨床研修を受けるのは相当に効率が悪いといえる。したがってアメリカでレジデントをする動機には,医学を学ぶということのほかに,何か別のものが必要であると思う。
 アメリカでレジデントをする目的として,帰国にあたりアメリカのよい医学を持ち帰って,日本の医学に貢献するためであるなどという考えは,今の私にはまったく浮かんでこない。今の私にそんな余裕はないし,少なくとも私の場合は,そんな遣唐使や遣隨使みたいな高尚な気持ちだけで厳しい時間に耐えられるほど人間はできていない。
 病棟で腎臓内科の医師が,他科の医師を相手に激論を交える光景は,映画のワンシーンのように写る時がある。そういった彼等は文句なしにカッコイイ。最高の設備の整った巨大な病院で,最新の医療を駆使して患者を治療し,世界を相手に英語で立ち回れたとしたら,こんなカッコイイことはない。そして私の場合は,アメリカのすばらしい医学を学ぼうというアカデミックな理由よりも,このまるで少年のような漠然とした憧れが,今のところアメリカでレジデントをやってみるかという動機になり得る。

現在の状況

 アメリカに来て4か月が経過した。英語を含めて日本と違う世界に飛び込み,今でも苦労するのは変わらないが,渡米当初に比べると,やや余裕が出てきたように思う。臨床実習の4か月間を振り返ると,右も左もわからず,最初は“observation”の1か月であった。そして次の1か月はレジデントを初めとする周囲のドクターからの“education”であった。そして“training”の1か月があり,最後の月はある意味で,コロンビアの学生との“competition”であった。勝敗は私の方が見劣りした感があるが,よい意味で彼女からはたくさんの刺激を受け,多くのことを学ぶことができた。
 そして,アメリカに留学する意義は,何も医学そのものを学ぶことだけではないということがようやくわかってきた。言葉が違う,文化が違う,レベルが違う,そんなまっただ中に飛び込んで,私はまさに悪戦苦闘の日々を送った。正直,今でも大変すぎることは多いが,それだからこそ頑張ってみる価値があると私は思う。ものすごく違う世界に身を置き,実力以上のものを要求され,考え方や価値観の違いを肌で感じとることのできる私はなんと幸福者だろう。
 今週で腎臓内科の臨床実習は終了し,来週からは腎臓に関する臨床研究の仕事を2か月間することになっている。浅倉稔生教授から,渡米前に「期間が2か月しかないので,日本の病院とアメリカの病院の腎臓内科の外来を訪れる患者の病気を比較するのはどうだろうか」といわれ,母校の日本医大の腎臓内科の飯野晴彦部長の指導のもとに集めた外来受診患者に関するデータを持参しているので,こちらで同じようなデータを収集し,疫学的な比較をしたいと考えている。そのため来週,アメリカ最初の病院として有名なペンシルベニア病院の病院長と面会し,カルテからデータを集める許可をいただきに行く。アメリカ社会においては,私がいかにsmartな医学生で日本で集めたデータがいかにreliableで,私のリサーチがいかにinterestingかをfluentlyに説明する必要があると思う。当然,気が遠くなるほどの準備をしていかなければならないが,それを苦痛な作業と感じるか,あるいは“面白い,やってやろう”と思えるか。
 昨日,これまで研修した病院の受け持ち患者にお別れの挨拶をしたら,“ I miss you”と泣かれて感動した。誠心誠意,からだでぶつかっていけば,どうにかなるものである。そしてこれが辛さや悔しさや自信のなさを吹き飛ばしてくれる。次回は私の臨床研究の話を書けると思う。
 最後に,私の留学に際していろいろと温かくご尽力いただいた母校の早川弘一学長,小川龍教授,飯野靖彦助教授,それから今回の留学をアレンジして,このようなすばらしい経験をするチャンスを与えてくださった浅倉教授に心から感謝したい。