医学界新聞

アメリカ留学日記(3)

ペンシルベニア大での臨床研修を振り返る

長浜正彦(日本医大6年)


 昨年7月,日本医大を1年間休学して,米国ペンシルベニア大に留学してほぼ3か月が過ぎた。人間とは不思議なもので,最初はどうなるかと思っていた臨床実習も歯を食いしばって頑張っていたところ知らず識らずのうちに,問題点がまるで氷が溶けるように少なくなり,まだまだ不十分ではあると思うが,何とか自分1人で外来の患者を診たり,他の科から依頼された患者を診察してコンサルト用紙に指示を書いたりすることができるようになった。10月末をもって腎臓内科の臨床実習が終了したので,ここでアメリカ留学の3か月間を振り返ってみたい。

コロンビアからの留学生

 日本の学生の臨床実習は数人のグループでローテートするのに対して,アメリカでは普通1人,多くても2人でローテートする。私の場合,これまで1度ペンシルベニア大学の4年生と一緒になったことがあったが,その時以外は,学生は私1人でアテンディングの教授とフェローと一緒に1日患者を診て回りいろいろと教えてもらうことができた。10月になり同じ腎臓内科のコンサルトチームにもう1人の学生がやってきた。その学生は,コロンビアからの交換留学生イザベラであった。この色白で可愛い女性がグループに入ってきたので,私たちだけでなく,訪れる患者まで花が咲いたような雰囲気に変わったように思う。
 聞くところによると,コロンビアの医学教育は日本と同じく高校から6年制の医学部に入るが,国家試験がなく,卒業と同時に医師免許を取得できるそうである。教育は臨床に重点がおかれ,医学部最後の1年間は「インターン」と呼ばれ,アメリカのレジデント1年生のような研修を受けるので,いわゆる医学部での教育は5年間のようである。彼女は4年生を終了してペンシルベニア大学に来ているので,私の1級下にあたる。すでに述べた通り,アメリカの医学生は優秀で舌を巻くことが多かったが,果たして1級下のコロンビアの医学生にまで日本の医学生は舌を巻かなければならないのだろうか。彼女と一緒に実習した体験を書いてみたい。

医学知識の比較

 日本で教育を受けた私がアメリカに来て困ったことは,言葉の問題はさておき,研修システムや患者の診察の仕方が大きく違うことであった。アメリカでは教授クラスのアテンディングが2-4週間フルタイムでフェローや学生とともに患者を診るので,いわば1日中そのグループで患者や病気のことを話し合う。患者を診ればその患者についてプレゼンテーションし,カルテに所見を記載しなければならない。問題があれば図書館で文献を集めてきて皆で話し合う。日本でそのような教育を受けたことのない私にとってこの種の研修は初めてで,それに慣れるのにかなりの時間を要した。そのため私は実習の仕方を1から学ばなければならなかった。
 それに対して,南米からやって来たイザベラはアメリカと同じようなシステムで教育を受けたそうで,1級下のはずなのにケースプレゼンテーションなどは最初から楽々とこなしてしまうし,診察の仕方もやたらとよく知っていた。4年生なのにすでに分娩は50症例ほど経験したそうで,大概のことは自分1人でできる能力を持っているのに驚いた。心雑音などは彼女のほうが,私よりよく聞き分けることができるので,格好つけても仕方ないので診察の仕方でわからないことは素直に彼女から教えてもらった。眼底の診かたは,彼女に教わったようなもので,その月はどんな患者でも眼底を診るようにした。
 しかし,すでに3か月間アメリカで武者修行した私も負けていられない。腎臓病に関する知識は,当然私のほうがよく知っていたので,腎臓内科の診察,診断に関しては,私のほうが速やかに的確なアプローチをすることできた。渡米当初はこちらの学生に全部教えてもらっていた私が,3か月を経た10月には立場が逆転して,教えているのだから不思議なものである。しかし,私が知らなかったことを彼女が知っていることもめずらしくなく,驚かされることも多かった。

英語力の比較

 英語に関しては,これは彼女のほうが文句なしに上手であった。そして,これが一番大切なことだと思う。臨床の場では,英語は所詮,手段でしかなく,患者を前にいかに的確に病態にアプローチできるか,そしてそれに基づいていかに的確な診断を下すことができるかが鍵だということは,その通りなのだが,外国人には言葉のファクターが次のような意味ではハンデとなる。例えば私と,医学知識がほぼ同じレベルのアメリカ人医学生が同じ患者を診に行ったとする。病歴聴取やカルテから得られる情報量は,言葉のせいでどうしても私のほうが2―3割減になる。そして,今度は回診でアテンディングにケースプレゼンテーションするのだが,ここでも同じ理由で私は自分の持っている情報の8割ほどしか報告することができない。結局のところ,私は言葉の壁により同じ知識量のアメリカ人に比べて6割程度しか実力が発揮できないことになる。
 これは,臨床の場で相当大きなハンデとなってしまう。4か月間実習したお陰で,教育目的のカンファレンスなどでの英語は大概の場合,ほぼ完全に理解できるようになってきた。しかし臨床の場でのディスカッションとなると,早口で喋る彼等のペースで英語についていくのはまだまだ難しい。したがって患者に関するディスカッションでは,私のほうが彼女よりよく知っているのにもかかわらず,英語のせいでうまく質問に答えられなかったり,時には質問の意味さえわからなかったりした。私自身,彼女と勝負しに来たわけではないので,他人にどう評価されるかはそれほど重要ではないのだが,彼女のほうが優秀な学生に見られることが多かったように思う。そして,その理由は英語の他にもう1つあることがわかった。

「最先端の医学」とは

自分をよく見せる能力

 それは,アメリカ社会の中で自分をよく見せる能力である。例えば細かいことだが,同じ説明を聞くのでも黙って聞いているのと,大きくうなずき時には相づちまで打つのとでは,後者のほうがよくわかっているように見える。知らなかったりわからなかったりした時は,日本人の私はどうしても申し訳ないという態度をとってしまうが,彼女は堂々としたものである。また彼女が,前日に話題になったトピックに関して,すかさず文献検索をしてきて,翌日には論文を片手にその内容を,とうとうと述べ始めた時には“やられた!”と思った。しかも,われわれの分まで文献をコピーしてくる用意周到さである。
 また,外来患者を一緒に診察した時も彼女の病歴聴取はお世辞にも上手と言えるものではなかった。腎細胞癌疑いの患者であるのに,心筋梗塞の既往があり狭心症様の胸痛があるとわかると,循環器内科さながらの病歴聴取になってしまい,彼女の診察の仕方は腎臓内科としては不十分であった。そこで横に付いていた私が,癌の転移を念頭において骨痛を聞いたり,コンピュータから検査結果を書き写す時には重要と思われる項目を彼女にアドバイスしたりした。
 そのあと,いよいよアテンディングへのケースプレゼンテーションをすることになった時に彼女は,「腎細胞癌疑いの患者なので,転移を懸念して骨痛を聞きましたがありませんでした。しかし,2か月前のボーンスキャンのレポートをコンピュータでチェックすると,左側の第4,5肋骨と右側大腿骨頭に転移と思われる病変があり,また肝酵素も上昇しているので肝転移も否定できません。さらに,血中カルシウム濃度は……」といった素晴らしいプレゼンテーションをした。実際には,彼女が患者に時間をかけて詳しく聞いていたのは,「胸痛は労作時に起こり,肩に放散するとか,何分持続する」といったことだった。しかし,プレゼンテーションをする時は,それをあっさり捨てて,私の見解を堂々と述べて絶賛を受けた。
 こういうことは,単に個人的な性格の違いだけでは説明がつかないように思う。日本人は,とかく「これができない,あれができない」というネガティブなことを述べがちであるが,こちらの人間はできないことは棚上げにして逆に「これができる,あれができる」と,自分の実力をアピールする。いや,私には「アピール」に映るが,そう考えること自体が日本的指向であるのかもしれない。黙っていては通じ合えない移民の国アメリカでは,どんな些細なことでも発言して伝えておく必要があるのだろう。
 そして日本を離れて異文化の土俵で,ある意味での「勝負」をしなければならない時は,その地で有利と思われる振る舞いをするべきだと私は思う。自分の英語が上手だと誉められた時に,「いや,そんなことはないですよ!」と答えるのと,「はい,私はここへ来る前に1年間,猛勉強しました」と答えるのと,どちらが好印象かといえば後者なのである。アメリカ社会では,脳ある鷹は決して爪を隠さない。
 医学界での論文発表や研究発表は一種の競争だと思うが,日本人の医師が英語ができないために,そしてアメリカ社会でのアピールの仕方に不慣れであるがために,正当な評価を受けられないことは多分にあるのではないかと思う。アメリカで評価されるために医師になるわけではないが,最先端の医学がアメリカを中心に動いている以上,英語やアメリカ社会での振る舞いも含めて,「最先端の医学」だと思う。

つづく