医学界新聞

第89回アメリカ癌学会印象記

朝元誠人(国立がんセンター研究所)


 1998年3月28日から4月1日まで,第89回アメリカ癌学会がニューオリンズで開催された。このアメリカ癌学会には世界中の癌研究者が集まり,癌に関連したすべての分野の最新の研究成果が発表される。この学会で印象的または特徴的だと感じたことを述べたいと思う。

Dr. Coffeyによる会長講演

 「今回はすでに8000人が登録し,200の招待講演,4500の一般演題からなる」と紹介した後に,今回の会長であるDr.Coffey(Johns Hopkins大学)によるPresidential Adress「Cancer Cell Structure:Aberrations in the Decoder of DNA」が始まった。
 この講演でDr. Coffeyは,遺伝性の癌ではすべての細胞が遺伝子変異を持っているが,癌が発生するのは一部の臓器のみであることから,Epigeneticな要因がその臓器特異性を決定している可能性を述べた。そして,臓器には前立腺のように発癌の頻度が高い臓器がある一方,精嚢のようにきわめて低い臓器もあり,それぞれに特有の蛋白質を発現し,その発現には核マトリックスが重要な働きをしていることを示した。また,その核マトリックスはこのような組織特異的な遺伝子発現の調節の他に,細胞の3次元的形態および機能に重要な役割をはたしており,癌化においても細胞の形態変化,Epigeneticな変化に関与している可能性を指摘した。

Dr. VogelsteinによるPlenary Session

 会長講演に引き続いて開かれたPlenary Sessionのシリーズの1つに登壇した同じくJohns Hopkins大学のDr. Vogelsteinは「Cancer Genetics:Gatekeepers and Caretakers」と題して講演した。
 氏は,「家族性大腸癌の家系ではAPC遺伝子の多型性としてI1307Kを持つものが多く,この部位へのアデニンの挿入によるフレームシフト突然変異が癌で高率に見つかる。また,ミスマッチ修復遺伝子に異常のない癌には,反対に染色体不安定性が高率に見出され,それらの癌にはmitotic checkpoint genes(有糸分裂チェックポイント遺伝子)の1つであるhBub 1遺伝子の変異が高率に検出される」と報告して注目された。
 周知のように,Dr. Vogelsteinはすでに数多くの業績を残しており,この学問領域では世界で最も高名な科学者の1人と言っても過言ではなかろう。しかしながら,飛行機嫌いであり,かつまた人と話すのを極端に嫌うという噂も流れていた。
 筆者が直接講演を聞いたのは,今回が初めての経験であったが,その内容はきわめて格調が高く,期待を裏切られなかったばかりでなく,講演の途中で,「APCはAntigen Presenting Cell(抗原提示細胞),Anaphase Promoting Complex(後期プロモーティング複合体),Adenomatous Polyposis Coli(大腸腺腫症)の3つ語の合成語である」などという冗談も飛び出すほどのユーモアを示し,“話嫌い”という噂がたんに噂にすぎないことが十分に理解できた。
 さらにDr.Vogelsteinは,レセプションで“Wild Type”という名のバンドのキーボードを担当し,玄人はだしの演奏を見せてその多才ぶりを聴衆に披露した。

Meet-the-Expert Sunrise Sessions

 アメリカ癌学会の特徴の1つに,朝の7時から1時間開かれるMeet-the-Expert Sunrise Sessionsがある。
 このセッションは,それぞれの専門家があるテーマを基礎から最新のデータまでわかりやすく説明するもので,今回はその中でDr. Gouldが「Animal Models for Chemoprevention」と題して講演。ラットの化学乳腺発癌モデルの有用性,ヒトとラットの乳癌の類似性および相違点を指摘して,動物を用いた癌化学予防の今後の方向性を示唆した。
 また,日本からも東大の武藤誠先生,国立がんセンターの山口建先生が講演者として名を連ねていた。
 「Genetic Analysis of Tumor Supression by COX-2 Inhibitors」と題する武藤先生の講演では,腸に多発性の腸瘍を発生し,家族性大腸ポリープ症および癌のモデル動物であるAPCノックアウトマウスに,COX-2遺伝子のノックアウト変異を導入するとポリープの数と大きさが著しく減少することを見出し,さらにCOX-2選択的阻害剤が腫瘍の発生を著しく減少させ,COX-2選択的阻害剤は癌化学予防物質として有望であることを示した。
 一方,山口先生は「Familial Cancer Syndromes:Genetic Tests and Clinical Approaches」と題する演題で,家族性腫瘍の遺伝子診断の実際と,有効性およびその問題点について解説した。

Controversy Sessions

 文字どおり,現在話題になっているホットなトピックスについて議論するのがControversy Sessionsであるが,今年はその1つに「Environmental Estrogens and Cancer」が取り上げられた。
 日本のマスコミおよび医学界でも,農薬やPCBなどの,いわゆる“環境ホルモン”が人類に癌のみならず生殖系などに悪影響をもたらす可能性について論じられているがこの会議では現在得られている疫学データ,および動物実験データを客観的に2人の演者が紹介していた。乳癌の発生に限っては多くの結果は発癌抑制を示すものであり,筆者はそれほど心配する必要はないと感じられたが,結論を出すにはさらなる研究が必要なのは明らかであろう。

Late Breaking Reserch Sessions

 このセッションは,学会抄録の締切後に得られた重要な実験結果に発表の機会を与えるもので,今回は計22題が企画された。
 まずCOX-2選択的阻害剤としてcelecoxibがAPCノックアウトマウスの腸発癌抑制にきわめて有効で,副作用がないことがDr. Lubetらによって報告された。
 さらにDr. MacLeodらは,mouse mammary tumor virus promoter調節下のもとでpolyoma middle T antigenをつなげた乳癌好発トランスジェニックマウスにinducible nitric oxide(iNOS)遺伝子欠損を導入すると乳癌の発生,その血管新生さらには転移が抑制されることを見出し,iNOSの乳癌発生進展における重要性を証明した。一方,iNOSはL-アルギニンから合成されるが,L-アルギニン欠乏食でも同様の抑制効果があることを明らかにした。
 Dr. Issaらはヒト大腸癌で特異的にかつ高率にメチル化されている遺伝子断片を単離し,“Epigenetic Instability”という概念を提唱。ミスマッチ修復遺伝子の1つであるhMLH1遺伝子がメチル化により不活性化している大腸癌が,マイクロサテライト不安定性を示す癌の30%以上存在することを示した。

ヒト正常型c-Ha-ras遺伝子導入ラット

 われわれはヒト正常型c-Ha-ras遺伝子導入ラットを作成し,このラットが乳腺発癌に非常に高感受性であることを発表した。さらに,このラットは食道発癌にも高感受性であるが,膀胱発癌ではやや感受性が上昇するのみで,大腸,肝発癌では発癌感受性は野性型ラットと差異が無いことを示した。このラットは,c-Ha-ras遺伝子による発癌メカニズムを解析するのに有用なモデル動物と考えられるばかりではなく,癌化学予防,化学療法,遺伝子治療のモデル動物としての有用性が期待される。 4時間の発表時間中たえず質問があるのでそれに答えるのに忙しかった。その中でアメリカらしく私の発表を知り,関連している自分たちの研究成果をみてほしいとの申し出もあった。
 Dr. Schaferらは,Ha-rasによって癌化した細胞で発現が低下しており,ヒトの癌抑制遺伝子の候補であるH-REV107-1を単離し,この学会で発表していた。またDr. Moniaらは,ヒト特異的H-rasアンチセンスヌクレオチドのリポゾーム体がヌードマウス移植ヒト腫瘍の治療に有効であることを報告していた。

研究者支援

 アメリカ癌学会には学術発表だけではなく,多くの研究者支援プログラムがある。助成金を獲得できる申請書の書き方,いかにすれば研究者として生き残れるか,また女性研究者は21世紀にむけてどう対応するべきかなどの講演が組まれ,託児所さえも設けられていた。さらに,職探しの場も学会が与えている。プログラムには求人と求職のリストが掲載されており,学会場には面接会場が設けられていた。
 筆者はフランスとアメリカに留学経験があるが,今回の会議ではアメリカのみならず,フランスのかつてのボスや同僚に会うことができ,交友を深め,かつ最新の知見を交換することができた。これもアメリカ癌学会が癌研究の最先端の国際会議で,世界中の研究者が一堂に会する機会であることの証左であろう。
 余談ではあるが,会議を通して特に印象的だったのは,日本での体験に比べて居眠りする人の少なさであった。日本人はなぜあのように会議中居眠りをするのだろうかと思わず考えてしまった。

おわりに

 さて,今回は金原一郎記念医学医療振興財団の援助を得て,第89回アメリカ癌学会に参加できた。多くの知見を得,世界中の研究者とも交友できたことを深く感謝するとともに,微力ながら7月からの筆者の新任地である名古屋市立大学医学部第一病理学教室でも癌撲滅のために研究を続けていきたいと思う。