医学界新聞

連載 市場原理に揺れるアメリカ医療 番外編

スター選手の死(3)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部助教授


診断をめぐる論争

 ドリームチームの「心筋症により再起不能」という診断と,マッジの「心臓神経症だから何の心配も不要」という診断はあまりにもかけ離れていた。ドリームチームのメンバーだった医師たちは,マッジの診断をこぞって批判したが,匿名でなく公然とマッジを批判したのはベス・イスラエル病院のマーク・ジョゼフソンただ1人であった。医療の最先端を行くボストンの高名な専門医たちが,1人の患者の診断をめぐって,マスコミを舞台に正反対の2つの意見を闘わせる,という異常な事態が展開することとなった。ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン誌の編集長ジェローム・カシラーは7月1日号の解説でこの論争を取り上げ,矛盾するデータが存在する時に,医師の間で意見が分かれるのはきわめて自然であると強調しながらも,医師の意見がかくも違い得るということを患者に理解してもらうことの困難さをも指摘した。

冷徹な判断

 マッジは自分の診断に自信を持っていた。しかし,ドリームチームの診断もそれなりの根拠に基づいたものであり,無視できるものではない。マッジはドリームチームの医師たちを招き,ルイスの診断について討議することを提案した。マッジの劇的記者会見から2日後の5月12日,マッジの率いる医療チームとドリームチームの間で会議を持つことが予定された。  すべての資料を用意し万全の準備を整えて待つマッジはドリームチームの医師たちの到着を待ったが,彼らの前に現れたのはセルティクスの重役だけだった。実はこの会議の直前に,セルティクスの経営陣と顧問弁護士の間で対応策を巡る話し合いが持たれ,「セルティクスの法的立場を最も有利にするためには,ドリームチームの医師団を会議に出席させないことが得策である」との結論が出されたのである。
 セルティクスは,ホーネッツ相手のプレーオフ中に倒れたルイスを試合に復帰させたこと,チームドクターがルイスの許可を得ずに病状を暴露したことなどの失策で,大きな批判を受けていた。セルティクスの依頼で組織されたドリームチームの医師団は,すでにマッジとは正反対の「再起不能」という結論を出し,ルイスはその診断が気に入らず自分で病院を替えたわけであるから,今後ルイスの身に何が起ころうともルイスが自己退院した時点でルイスに対するセルティクスの法的責任は消失していた。マッジとドリームチーム医師団との討議の結果どんな結論が出されるにせよ,セルティクスが依頼した医師たちが意思決定に関与すれば,将来のルイスの健康については再びセルティクスに法的責任が生ずることとなる。ここはドリームチーム医師団を出席させないほうが得策だ,との決定が下されたといわれている。
 セルティクスの企業としての冷徹な判断が,ルイスの診断について正反対の意見を持つ医師たちの間の討議の機会を奪うこととなった。もし,この時に予定通り医師たちの討議が行なわれていたならば,その後の悲劇を避けることができたかもしれないのである。

不信感

 マッジとの劇的記者会見の4日後,ルイス夫妻はラジオ番組に出演し,この間のセルティクスの対応を非難した。番組の最後に今回の事件で得た教訓は何かと聞かれ,ルイスは「人を信頼しすぎてはいけないということだ」と答えた。マッジの診断はルイスにとって嬉しいものだったが,ルイスはマッジのバラ色の診断を全面的に信じることはできなかった。ドリームチームの診断とあまりにも食い違っていたからだ。ルイスは6月21日,ロサンゼルスに飛び,4人の心臓専門医の診察を受けた。4人は概ねマッジの見立てに同意しながらも,生命の危険がある心筋症の疑いも捨てきれないと,ルイスにとっては白黒がはっきりしない結論を出したのであった。
 どちらの診断を信じるべきか,ルイスの気持ちは揺れ動いたが,この間,マッジの指導の下に注意深い復帰計画が練られた。5月下旬にはコート脇に除細動器を用意し,心電図をモニターしながら軽い運動を行なったが,何も異常は起こらなかった。マッジから医師を伴わずに軽い練習を再開することが許可された。

倒れたルイス

 セルティクスはボストン郊外のブランダイス大学の体育館を練習場として使っている。7月27日午後4時15分,ルイスは親戚のロバート・ハリスと2人でブランダイス大学の体育館に現れた。ルイスは軽いシュート練習を始めた。ルイスが倒れたのは5時過ぎだった。隣のコートでバスケットボール・キャンプの子どもたちを指導していたロンダ・シェイファーは,たまたま救急医療士だった。シェイファーはルイスを抱え途方に暮れているハリスに,自分が救急医療士であることを告げ,すぐにルイスのもとに駆け寄った。キャンプに参加していた子どもたちの2人が救急車を呼ぶために電話まで走った。やがて,脈が触れなくなり呼吸も不規則になった。ブランダイス大学の警察官2人が,シェイファーの指示のもとに蘇生処置を始めたが,呼吸も脈も戻る気配はなかった。5時20分に救急車が到着し,救急隊員が蘇生処置を引き継いだ。ブランダイス大学長のサムエル・シーア医師(現在はマサチューセッツ総合病院長)も現場に駆けつけた。気管内挿管,除細動が行なわれたが,反応はなかった。
 ルイスはウォルサム・ウェストン病院に運ばれた。救急担当医はメアリー・アン・マギンだった。彼女はルイスを蘇生させるべくありとあらゆる努力を尽くした。ブリガム病院のマッジにも連絡が取られた。マッジは「絶対に助けるんだ!絶対に助けるんだ!」と電話口でマギンに絶叫したという。ルイスが倒れ,病院に運ばれたというニュースはあっという間に広まり,報道陣が大挙して病院に現れた。ルイス夫人に連絡したのは友人のラジオ番組の司会者だった。何も知らないルイス夫人は,電話をかけてきた友人に「2人目を妊娠したのよ」と明るく告げた。夫が倒れたことを知らされ,彼女はもうすぐ1歳になろうとしていたレジー・ジュニアを連れ病院に急行した。蘇生処置が続けられたが,ルイスが蘇る気配はなかった。午後8時30分,「見込みがないのならもう止めてください」とのルイス夫人の要請により,蘇生処置が終えられ,ルイスの死亡が確認された。 
 5日後,ルイスの通夜が,ロクスベリーのデイビス葬儀場で営まれた。ネイビーブルーのスーツ姿で棺に横たえられたルイスに最後の別れを告げようと,多くのファンが弔問に訪れた。ルイスの棺が据えられたチャペルの裏側に控え室があった。その控え室でたった1人泣き崩れていたのは,ギルバート・マッジ医師であった。

つづく