医学界新聞

悠々とした病理学

21世紀に向かって

樋野興夫氏インタビュー((財)癌研究会癌研究所・実験病理部長)


 今年4月,広島で行なわれた日本病理学会総会において,樋野興夫氏(癌研究会癌研究所実験病理部長)による「悠々とした病理学」と題した教育講演が好評を博した。内容は混沌の時代に入ったとされる現在の病理学において,理念を持つことの意味を示すものであり,また病理学の今後の方向性を指し示すものであった。
 本紙では,樋野氏にインタビューを試み,日本における病理学にととまらず,広く基礎研究を進める上での理念をお話いただいた。


――今年の広島での第87回日本病理学会総会(会長=広島大教授 田原榮一氏)でお話しになられた教育講演が,大変好評を博し,反響が大きかったと伺っております。この講演の内容を教えてください。
樋野 今年の春に開催された広島での日本病理学会総会では,田原会長の下で教育講演シリーズが企画され,岸本忠三先生(阪大総長),本庶佑先生(京大医学部長)をはじめ,日本を代表する分子生物学者のそうそうたるメンバーが講演され,私は,講演の直前まで何を話そうかと心と頭を痛めておりました。
 講演の前日に,虎の門病院副院長の原満先生から,「去年,東京で秋の病理学会の世話人をしたが,研究を主体とした講演(A演説)と,病理診断の講習を中心としたシンポジウムでは出席者の人数が全然違っていた。若い人たちは研究よりも,診断のほうにいる乖離現象がある。学会はそれをきちっと解決しなければいけない。君は,21世紀の病理学はどうあるべきかを大胆に話すように」と言われました。また,私の癌研・実験病理部の初代部長である高山昭三先生が「淡々として樋野さんの研究を喋れば,人に感動を与える」とアドバイスされたのです。
 広島に行く前に,私は日々Nature誌,Science誌,Cell誌に投稿を競っておられる,第一線の分子生物学者が話される中で,病理みたいな泥臭い学問領域の人間が喋るのは気が引けると躊躇していましたら,癌研所長の北川知行先生から,「悠々とのんびりと喋れ」と言われました。
 「悠々」という言葉自体は,今年の1月に癌研名誉所長である菅野晴夫先生から与えられたものです。これは,(1)自分の研究に自信があって世の流行り廃りに一喜一憂せず,研究費をとろうとか,ポジションをとろうとあくせくしない態度,(2)軽やかに,そしてものを楽しむ,(3)学には限りがないことをよく知っていて,新しいことにも自分の知らないことにも謙虚で,常に前に向かって努力しているイメージです。
 それを受けて私は自分の教育講演のタイトルを「悠々とした病理学-21世紀に向かって」としたわけです。

病理学の現状

樋野 私は教育講演では,まず病理学の現状を述べました。現在,「診断病理」と「実験病理」の乖離現象がありますが,それがなぜ生じるかが問題です。これは,病理学の基盤低下とそれに伴い社会の信用性の低下を引き起こすからです。つまり病理医は結局,自分たちで足を引っ張りあっていることになるのです。
 かつて高峰譲吉,仁科芳雄,寺田寅彦,湯川秀樹,朝永振一郎など,そうそうたる人物を生んだ当時の理化学研究所の所長であった大河内正敏は,「日本の産業を振興するために,科学技術の研究を行なう必要がある。しかし応用研究のみを行なうと頽廃する。純正研究を同時に行なわなければならない」と,応用研究と基礎研究の問題点を見事に看破しています。
 純正研究とは物事の本質を見極めるということで,その究極の本質に近づくための階段を一歩一歩登るという一種の開拓行為ということらしいです(東大名誉教授・和田昭允先生による)。実務的なことばかりになると必ず地盤沈下を起こすといみじくも言っているのです。それがまさに現代の病理学にも言えて,その点を深く,真剣に考えなくてはいけないというのが,私の主張です。

病理学の三位一体

樋野 それでは病理学は何かというと,病気の根幹を追求しようとする「the study of the diseased tissues」であり,俯瞰的に物事を見る総合の学問であると言えます。現状を見ると病理学は,診断病理と実験病理の間に変な緊張関係があり,あるいは妙な妥協関係があり,それぞれ問題を生じているのです。実際に大学の病理に携わる人で,流行りの分子生物学者に説得力をもって病理の素晴らしさを言うことができる人が少なくなっているといわれております。本来病理には,「診断病理学」と「懐の深い実験病理学」と,それをブリッジするような「広々とした病理学」があり,1つのユニットとしてやっていかなければいけないと考えます(病理学の三位一体)。それぞれの核になる人材をきちっと育成していないのに加えて,それをブリッジするような人材を,日本病理学会は理念を持って大きなスケールで育成していないのも大きな問題です。

診断病理と実験病理との乖離

樋野 現在,大学の病理学講座は2つありますが,病院病理部に教授を作ったら,病理学講座は2つもいらなくて,1つでもいいという流れ,傾向があるようです。大学で病理学が縮小されています。若手の病理の人たちの中には,一体自分はどうすべきか悩んでいる人々が多くいます。本当に診断だけに専念すべきかと悩んでいるのです。10年ほど前からその要素は噴出していましたが,それでも,リーダーシップがきちっとしている時代はそれでよかったのです。
 しかし本当の病理学とは,病気の根幹を追求する学問で,手段としては顕微鏡,形態学的なものも必要だし,そして臨床観察から導かれた疑問に対して深く追求して,病気の原因を追求することも必要なのです。
 理想的には,ある人は診断を,ある人は研究をして,それをブリッジしてまとめる人を置くチェアマン制による大講座制です。そして若い人は,あるときには診断に集中するけれども,あるときには研究にも進めるように,交流は自由にしておく。現在はそこに壁を作っているのです。このような現状になっている大きな原因は,教授の人間性によります。つまり自分の城,場所を持ちたいということです。一方,安易な大講座制も名ばかりで,実りがありません。最近,定員削減に伴って進められている理念なき,人材なき大講座制への移行は,「タヌキの泥舟」であるとの認識も必要です。20代,30代の若い病理医はいろんなことをやってもいいはずです。このような交流の場を作るためには,ダイナミックな,魅力ある病理学の環境を作っていかなければなりません。  

病理学は分子生物学を育てる

樋野 私が学んだ,小児科医で,癌の遺伝学の世界的権威であり,かつてフォックスチェース癌センターの所長で,現在NIHの顧問であるA.G.Knudson博士は,「病理学者をわれわれは必要としている」と言っています。つまり,医学研究をする場合,病理学は大切です。疾患の理解をきちっとするために,分子生物学者も試験管レベルで研究しますが,大局観を求めています。それを提示できるのは本来,病理学者であったはずです。病理学者は優秀な分子生物学者を育てることができるはずです。病理学とはそういう立場なのです。そういう認識をもう1度病理医は再考すべきであるというのが,私の考えなのです。
 かつて,ウイルヒョウが言ったように「病理学は拡大された生理学」です。病理学は俯瞰的に物事を見るような人物を育成しなければ,廃れてしまいます。

発癌病理研究における理念

樋野 これまでの発癌研究では,「臨床癌を起点にして,始まり(起始遺伝子)を推測し,予防・治療を予見しようとする」流れが多かったと考えます。しかしゲノム時代に入り,「起始遺伝子を起点とし多段階発癌の方向性を定め,臨床癌を意味づけ,予防,治療を予告しようとする」ことが,発癌研究の理念と考えます。動物を用いた発癌研究も,(1)ヒトを対象としては困難であるとは具体的に何か,(2)ユニークな疾患モデルの特別な利点は何か,(3)ヒト発癌機構の解明への貢献とは具体的に何か,これらをきちっと理念を持って進めるべき時代と考えます。
 また「炎症と発癌」の解明も重要です。例えば今度,私は飯野四郎先生(聖マリアンナ大教授),沖田極先生(山口大教授)と一緒に「肝発癌とその制御研究会」を始めるのですが,肝癌研究の理念は,(1)どうして慢性肝炎が起きるのか,(2)慢性肝炎からどうして肝癌が発生するのか,(3)肝癌の発生を遅らせる機序は何かです。これから日本が肝癌研究で世界に貢献できるのは,癌の発生を遅らせる研究と考えます。つまり,「高癌化状態から低癌化状態へ」であります。
 病気の本態が遺伝子レベルで具体的に考えられるようになり,本来ならば21世紀は,病理学にとってエキサイティングな時代の到来であるはずが,それができていないところに病理学の現状があるのです。
 「潜在的な需要の発掘」と「問題の設定」を提示し,「病理学に新鮮なインパクト」を与えることが時代の要請と考えます。

総合の学問としての病理学

理念を具体化すること

樋野 当然,実際に理念をどのように現実にもっていくかという問題が出てきます。このあいだ菅野晴夫先生がいみじくも言っておられましたが,重要なことは,「悠々としたサイエンティフィックな議論を高度な理念に基づいてする」ことなのです。「悠々とした病理学は快挙である」(国立がんセンター名誉総長 杉村隆先生),「最近は商業主義になり,貴君のようなサムライ精神がなくなってきた」(国立がんセンター病院長 垣添忠生先生),理念をまず喋ることも大切で,具体的にどうするかは,後でまた考えればよいということなのです。
 新島襄が今から100年前に「理想とする大学が実現するのに何年かかるか」と勝海舟に問われて,言下に「200年かかると思います」と言って,勝海舟の理解を得たと言われています。つまり,200年もかかるような大いなるビジョンというか壮大なスケールは,現代において,教育のみならずすべての分野において必要と思われる,ということです。現実に今やっているのは, 5年単位の理念なき改革が多いからではないでしょうか。本当に重要なことはすぐに実現しなくてもいいんです。
 病理学が総合の学問であることを止めたら,どういう問題点が将来の医学教育の中に出てくるかです。今はいいけれど,30年後,100年後にどうなるか。そういう問題意識を持たなければいけません。病理学にしても,いろんな専門分野に分かれて専門が狭く深くなればそれでいいという発想になるとしたら,5年,10年,さらに30年後に,日本の病理学の地盤がどうなるかです。
 日本の経済力が落ちてきて,右肩上がりの成長の時代が終わり,研究費のバブルが過ぎると,研究者は深く考える時代になると思います。
 今は大きなラボで,研究費があるところでがむしゃらにNature誌,Science誌,Cell誌の情報に一喜一憂していても,若い人が40,50代になって自分でラボを経営するときにどうかというのが問題になるわけです。
 「誰にでもできるが,どこにいてもできない」研究と,「どこにいてもできるが,誰にでもできない」研究の違いを理解することが大切だと思います。病理学は物事の本質を見極めようとすることで,まさに純正研究であり,DNAを扱えば純正研究だと思ったら大きな間違いです。
 研究者が時流に乗って,というものではなく,「悠々とした」精神を持たなくてはいけないということでしょう。

病理学の十字架

樋野 時代に生き,時代を超えて存在するダイナミックな懐の深い病理学は時代の要請です。「診断病理学」と「実験病理学」という2つの異なる領域の境界に立ち,「陣営の外」に出てブリッジとしての「広々とした病理学」ができるスケールの大きい人材の育成が急務でしょう。臨床医に対しては正義を貫き(診断病理学),若き病理医には研究の時間を身代わりとなり提供し学問愛を実践し(実験病理学),真の病理学は成就し,21世紀の病理学は復活すると考えます(病理学の十字架)。

樋野興夫氏プロフィル
1979-1991年 癌研究会癌研究所・病理部で腫瘍病理学を学ぶ。その間,米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター(ニューヨーク)で肝癌の分子生物学を,米国フォクスチェース癌センター(フィラデルフィア)にてA.G.Knudson博士のもと癌の遺伝学を学ぶ
1991年より現職
ヒト肝癌におけるB型肝炎ウイルスによる染色体転座の発見と,遺伝性腎癌ラット(Ekerラット)の病因遺伝子の単離・同定で世界的に知られている