医学界新聞

 ミシガン発最新看護便「いまアメリカで」

 WICアメリカでも知らない人が多い秘密[第4回]

 余 善愛 (Associate Professor, Univ. of Michigan School of Nursing)


母乳をあげない10代の母親たち

 数年前まで,私は週に1回,10代の人たちとその子どもたちだけを扱うクリニックで,ナースプラクティショナーとして働いていました。そこで,さまざまなアメリカのティーンエイジャーの生活様式や価値観を垣間見る機会を得ました。
 その際に気がついたことは,10代で妊娠,そして母親になる人たちの中には,母乳をあげる人がほとんどいないということでした。また,妊婦健診の時に母乳のことを話題にすることもなければ,乳房や乳首を,赤ちゃんに母乳をあげる準備のために調べるということもほとんどありません。10代の妊婦といっても,17歳から19歳までが主流で,その地域の中ではごく普通の人生の経路で,一般に白人社会でいう「10代の妊娠」という,いわゆる問題意識はあまりないように私自身は感じました。しかし,いわゆる低所得者階級に属する人たちが利用するこのクリニックで,どの赤ちゃんも一番高くつく,でき合いの,それも,もう瓶に入ってお店の棚に並んでいるミルクを飲んでいるのを見て,「どうしてこんなに(むだに)高いミルクをあげるんだろう」と不思議に思っていました。
 私の次男が乳児だった頃,最も安い粉ミルクの缶が,1週間ももたないのが,私の悩みの種だったのを覚えています。ベビーシッターに,「残ったミルクは悪くなる恐れがあるから,必ず捨てるように」と言ったためか,毎回のように余計に作っては景気よく流しに捨ててしまう現状で,夕方仕事に疲れた頭でそれを知るたびに,どうすれば飲む分だけ作ってくれるようにお願いできるのかしらと,考えていたものです。そんな思い出がある私にしてみれば,でき合いの瓶ごとのミルクを惜しげもなくあげているお母さん方の姿は不思議としか言いようがなかったのです。
 その背景には,アメリカ社会の商業主義が巧みに隠されていようとは,私も思ってもいませんでした。

栄養不良をなくす施策

 WIC(Women Infants and Children;婦人,乳児および子どものための特別食品強化事業)というのは,アメリカ政府が,低所得者を対象に行なっている食品栄養強化事業のことです。この事業の目的は,栄養不良の害を最も受けやすい市民の健康を強化改善することです。そのために,WICは,低所得家庭の中で,この事業に加入したいという家族を見つけ,認定することを具体的な事業としています。
 認定基準となる項目には,(1)収入,(2)年齢(10代の妊婦さんはこの基準に合致します),(3)母親の状態(健康および社会的),そして(4)栄養・健康に関する悪条件,等が含まれています。これによって認定された家族は,食品に替えることができるチケットを政府から毎月支給されるのです。
 この事業を管轄している政府当局の調査結果によりますと,WICは妊娠後期の胎児死亡,未熟児出産,貧血,および頭囲発育不全を少なくしたとのこと。これをお金に換算すると,WICで1ドル使うごとに,結果的には1ドル70セントから3ドル12セントのお金が節約できるそうです。
 1974年に,最初のWICが食品の現物のみを支給するというかたちで,200人を対象にケンタッキー州で導入されました。その年の終わりには他の州にもどんどん広がり,結果的には8万8000人の妊婦さんがWICの恩恵を受けるに至りました。この事業が始まった時には,関係者は誰も,WICがそれほど長続きするとは思っていなかったようです。その後,州ごとの競争心も手伝ってか,もっと加入者を増やそうという方向になったようです。そこで,アイデアに満ちたある州のお役人が,WICのチケットの使える粉ミルクを,業者の公開入札で決めようと言い出したのです。この問題をめぐる議論が,議会と業者の間で喧々諤々と続いたとのことですが,最終的には業者が,商品の売値を下げる代わりに買ってもらった州事業にリベート(割り戻し:日本語でよく使われる賄賂のような意味ではありません)を払うという形で決着しました。ただし,このリベートはWICに加入する人を斡旋するための費用にのみ使えると決めました。
 要約すると,ミルク会社はWICからほとんど原価に近い費用しか回収できないどころか,割り戻し金まで払わされることになったわけです。この,一見業者には不利にしか見えない契約が,実は業者にとって,お客さんを果てしなく増やし続ける金の卵を産む機械であったことは,誰の目にもすぐに明らかになりました。

母乳の普及が増えない理由

 WICは,全米で売られている粉ミルクの1/3を買い取っています。ですから,WICにより多くの妊婦さんを加入すれば,もっと多くのリベートが入ることになり,リベートが入れば入るほど,WICに妊婦さんが加入しなければならないということになります。WICに加入する家族が増えれば増えるほど,ミルクの売り上げが増えるというわけです。これが母乳の授乳率(以下,母乳率)を増やそうとしている人たちにとって目につかないわけがないのです。
 アメリカの厚生省のようなところが出している西暦2000年に向けての国民健康目標に,2000年までに病院退院時の母乳率を75%に,6か月目で50%までに高めようという項目があります。アメリカでは,正常のお産のケースでしたら産後24-48時間で退院しますから,この目標がいかに実際的であるかは十分検討の余地があるところです。それでは,母乳率の現状はどうかというと,1992年の報告によると生後6か月の時点で,母乳だけをあげているお母さんの率はなんとたったの11%で,これは1989年の数字とまったく変わりがなかったそうです。これが,WICに加入しているお母さん方となるともっと数は少なく,1992年で5.5%,1989年の4.9%よりは伸びているという程度です。
 「母児の健康のために母乳をあげましょう」という呼びかけは,ミルク会社の「お金を儲けたい」という強い欲望になかなか勝てないようで,アメリカでの母乳率は一向に伸びません。特に10代の母親や妊婦さんにとっては,母乳をあげるという行為自体が気持ちが悪く,恥ずかしい行動であると受け取られているようです。
 数年前に,私の恩師である平山宗宏先生(大正大教授)と共同で,「日米の高校生における母乳に対する態度の比較」という研究を行ないました。その時には,日本の高校生に較べてアメリカの高校生は,「母乳をあげている人を見たことがない」という回答が圧倒的に多く,差が出ました。また,これは当然と言えば当然ですが,自分自身が母乳で育てられたという高校生が,ほとんどいなかったということです。
 こういう状況の中で,1回や2回の「母乳をあげましょう」という,看護婦さんからの話しやパンフレットの配付で,1年間に660ドル近くになるただのミルクを棒に振ってくれと頼むのは,特に普段の生活費にことを欠きつつ送っている人たちに望むことは,それはそれでなかなか難しいことなのだと思います。