医学界新聞

連載 市場原理に揺れるアメリカ医療 番外編

スター選手の死(2)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部助教授


 ルイスは試合中に倒れた時のことを記者たちから聞かれ,「一瞬,ハンク・ギャザースのことが頭をよぎった」と答えた。

ハンク・ギャザース

 ハンク・ギャザースはロヨラ・メアリーモント大学のバスケットボール選手だった。1988-89年のシーズンでは,得点・リバウンドとも全米大学選手1位の成績を記録し,卒業時には間違いなくNBAから1位指名されるだろうといわれていた。1989年12月,ギャザースはシーズン第6戦のゲーム中に失神発作を起こし,病院に運ばれた。検査の結果,運動誘発性心室性不整脈と診断され,β遮断薬が処方された。失神発作から3週後,ギャザースは薬を服用し続けるという条件で,公式戦に復帰した。ギャザースの練習および試合出場中はコート脇に除細動器が置かれるようになった。
 1990年3月4日,ギャザースは西海岸地区のトーナメント,対ポートランド戦に出場した。試合開始後6分,スラムダンクを決めて自陣に戻ろうとするギャザースが突然倒れた。ベンチから医師たちが飛び出し,観客席からはギャザースの母親ルイスが駆け下りてきた。懸命の蘇生処置が続けられたが,ギャザースはついに回復しなかった。この時の一部始終がテレビカメラに収められ,スポーツ選手が試合中に急死するというショッキングな映像が全米に繰り返し放映された。
 ギャザースが最初の失神発作から復帰する際に,「全力でプレイできない」と,大学側が医師にβ遮断薬の減量を要請した事実があり,ギャザースの死は大学の責任であると,遺族は大学に対し訴訟を起こした。ギャザース事件を分析したバリー・バロン医師はニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン誌で,「ギャザースがスター選手でなかったなら,復帰については違った判断がなされたであろう」と,有名選手の診療に当たり医師の判断が医学以外のファクターに影響されることに警告を発した(1993年329巻55頁)。

不信感

 ルイスがホーネッツ相手のプレーオフで倒れた際に,試合に戻ることを2度も許可したセルティクスの判断に対して強い非難が巻き起こったのも,ハンク・ギャザース事件の生々しい記憶があったからである。
 「セルティクスはルイスの生命よりもチームの事情を優先させた」という強い非難に対し,セルティクスは高名医師たちによる「ドリームチーム」を結成し,「ルイスの健康こそがもっとも大切であり,そのためにセルティクスはできるだけのことをしている」という姿勢を示した。結果として,患者を診察もせずにデータを検討しただけで診断を下したドリームチームのやり方はルイス夫妻の怒りを買うこととなり,ルイスがブリガム&ウィメンズ病院(以下ブリガム病院)に自己転院することとなったのは前回述べたとおりである。
 ブリガム病院に転院した翌日の5月4日,ルイスのセルティクスに対する不信感を決定的にする事件が起こった。チームドクターのシェラーがテレビのインタビューに応じ,ルイスの病状に関するドリームチームの診断の詳細を暴露したのである。シェラーはルイスが自己転院したことに対し,「重い病気を診断された患者は誰でも診断を『否定』するステージを経るものだ」とまで述べ,暗にルイスの転院を無駄な努力であるかのように批判した。患者の許可もなくその病状をマスコミに公開されたとあって,ルイスが激怒したのも無理はない。シェラーは医師としての倫理にもとる行為であったことを認め,後に謝罪したが,「チームドクターとして選手が怪我をした時はいつもマスコミに詳しく情報を提供していたので,同じ次元で話してしまった」と弁解した。

重圧

 ブリガム病院に入院後,ルイスは文字どおりVIP待遇を受けた。ルイス夫人が個人的にブリガム病院の人事担当副院長ジョージ・ケイを知っていたので,まず彼に相談し,ケイが院長のリチャード・ネッソンに連絡し,ネッソンが直接入院の指示を出したといわれている。有名患者が入院したときの常でルイスの入院はブリガム病院の実質上のトップといわれるユージーン・ブラウンワルド(内科部長,専門は心臓)にもすぐに知らされた(ブラウンワルドはその時イタリアに滞在していた)。その後のルイスの経過は逐一ブラウンワルドに報告されたという。
 ブリガム病院でルイスを担当することになったのは臨床心臓病部門部長のギルバート・マッジであるが,彼は不整脈の専門家ではないという理由でドリーム・チームには招聘されていなかった。マッジは親身に患者を診ることで有名だった。ルイスは,1日に何度も病室を訪れ,親切に接してくれるマッジを信頼した。初めからマッジには数多くのプレッシャーがかかっていた。ドリームチーム医師団が「限局性心筋症による心室性不整脈であり再起不能」という診断を下した後,マスコミの注視の中で自分の元に移ってきた患者である。病院トップも患者の経過に多大の関心を払っていた。そして何よりも,選手生命が絶たれようとして落ち込んでいるルイスに,彼は心底から同情していた。マッジに「ドリームチームの診断とは違う解釈ができないか」という先入観が入ったとしても不思議ではない。
 ブリガム病院の臨床心臓病部門には心臓神経反射を専門とするグループがあり,傾斜試験といわれる検査に長けていた。患者を台の上に載せ,仰臥の状態から立位の状態に台を回転させ,心臓の反応を見る検査であるが,ルイスはこの検査で何度も陽性反応を示した。つまり,急な角度の変化で失神症状が繰り返し再現されたのである。ルイスの試合中の失神発作は心筋症という器質的疾患ではなく,スポーツ心臓にありがちの機能的傷害によるのではないか,とマッジは疑い出した。心筋症とすれば心エコーに顕著な所見が現れないのはおかしいし,心カテや心臓MRIの検査結果を偽陽性と説明することは可能だ。マッジは次第に自分の仮説に対する自信を深めていった。

ボストン中が沸いた診断結果

 5月10日,マッジは記者会見を開き「ルイスの病気は心臓神経症であり,生命に危険はない。何の問題もなく選手生活を続けることができる」という劇的な診断結果を公表した。会見に同席したルイス夫妻の顔は喜びで輝き,マッジの顔も誇らしげであると同時に患者と喜びを共有できる嬉しさに満ちていた。ボストン中がこの明るいニュースに沸き立った。セルティクスのファンは,大差でリードされていたゲームを土壇場で逆転した時のような興奮を持ってこのニュースを歓迎した。マッジはルイスの選手生命とともに,キャプテンを失いかけていたセルティクスの苦境を救った英雄となったのだった。

つづく