医学界新聞

 Nurse's Essay

 蓄積される「時」

 久保成子


 20世紀最後の冬季オリンピックが終わりました。各競技種目の多くは秒単位以下の0.00単位の数字でその勝敗を分けるという厳しい闘いの中で,各選手の方々が自分の持てる力を最大限に発揮しての試合は,勝敗を超えて競技を観る者に深い感動を与えてくれました。
 競技の秒単位以下の計測数値がテレビ画面に流れていくのを眺めながら,「今日1日が終わった」「もう4月,1年の4分の1が過ぎようとしている」といった時間感覚も,この0.00数値が流れるように過ぎる「時」の蓄積……時は流れない,蓄積するのだ!などと当たり前のことに興奮したりしたのです。
 さて,医療の現場でこの「秒単位」を意識して競う「時」と言えば,誰もが救命救急の場や入院患者さんの病状急変の場面をまずあげることでしょう。1人の人間の生命と医療従事者との秒刻みの闘い。看護婦もこの場に参加しています。
 ただ,こうした場とは別に看護婦はその専門性による秒単位の「時」の重視を必要としている場を持っています。それは,緊急時,平常時を問わず看護援助のあらゆる場面で病む人と向き合う時,看護婦が瞬時に選択しなければならない判断と,同時発生する言葉や行為やしぐさ等によって表される看護婦自身の「あり方」が集約される「時」と「場」です。
 苦痛に歪んだ病む人から「忙しいのにすまないね」と声をかけられた時,あるいは病室のドアを開けた時,自分で体動すらできない人がベットの脇に立って放心している姿を目にした時,瞬時に看護婦がどのようなあり方をするかは0.00秒と自分自身との闘いです。
 この瞬時の看護婦の選択が,病む人と一体感となった「時」として経験されるならば,「時」は流れるのではなくその都度蓄積され,やがてそれは医療・看護の倫理的判断力となって結実していくのではないかと考えているのですが,いかがなものでしょうか。オリンピックからとんでもない飛躍になったものとおわらいください。