医学界新聞

1・9・9・8
新春随想

性転換をめぐって

山内俊雄(埼玉医科大学教授・神経精神科)


 「埼玉医科大学倫理委員会,性転換手術を容認」「精神神経学会に性同一性障害の診断と治療のガイドラインを答申,性転換手術は時間の問題」といった記事の踊る中で1年余りを過ごした今,この,ちょっと変わった経験の意味を考えてみている。

性の問題への当惑

 ことの発端は「性転換手術の理論性を問う」申請が大学の倫理委員会に出されたことに始まる。委員の多くは臨床や基礎の医師であり,その他は生物学者や看護学を専門とする人たちであったが,正直なところ,この申請はわれわれ委員を一様に当惑させた。その当惑は医学が「性」という問題になじみがなく,ある意味では「性」の問題を避けて通ってきたことに関係していたようにも思う。
 思い起こしてみると,医学部の授業の中で性にまつわる問題を真っ向から教わったことは一度もなかった。あるとすれば半陰陽の話くらいではなかったかと思う。「性」は人の生活の中で大変重要な部分を占め,人の行動に影響を与え,その衝動は創造活動を刺激し,人の生活を豊かにもしたし,不幸にもしてきたのに,性の問題は医学の対象からはずされてきたと言ってもよい。
 医学が性の問題を回避してきた1つの理由には「性」の問題がしばしば個人的な趣向性や社会のあり方と関連しており,正常と異常の境を決めがたく,医学的判断にそぐわないということがあったのであろう。その顕著な例が同性愛の問題である。かつては異常とされていたものが,今では社会的な容認が得られる時代となった。その意味では,社会の性に対する意識が変わってきたのであり,医学もその影響を免れないのであろう。

性同一性障害

 そんな中で,生物学的性(男,女)と性の自己意識〔自分は男(女)〕であるという意識)が一致しない,いわゆる性同一性障害を医学の対象としてとらえ,治療すべきものとしての位置づけを与えたことはいろいろの意味を持っていた。
 大学の倫理委員会がそのような判断を下したのは自分が男(あるいは女)と意識する「性の自己意識」が胎生期からの発達の過程で生物学的に決定されるとする,生物学的要因説を重視したことにもよるが,性の同一性に悩む人たちの実態に触れ,現在の医療が手を差し伸べるべきとの思いにかられたことにもよる。これを病気と判断した結果,医療の対象と位置付けられ,当然のこととして,性転換手術も容認することになったわけである。
 ただ,「性同一性障害は病気である」と言い切ることにはいささか,ためらいのあったことも確かである。ごく最近まで,精神医学の教科書に同性愛が「性対象の異常」として記載されていたことに対し,同性愛グループが抗議を寄せたことの記憶も新しく,「また医者たちは新しい病気を作るのか」という声が聞える気もしたのである。
 しかし,これを病気と認定することによって,闇で密かに行なわれていた“治療”を明るみにだし,医療の現場で公に討議することができるし,治療を求めた人たちにも多くの福音があるとの思いから,答申では「性同一性障害は病気である」という表現をあえて用いたのである。その結果,当事者の中から,「今まで自分が何者かよくわからなかった。親からも変な目でみられ,自分でも変態ではないかと思っていたが,この答申をみて,自分がこういう病気だったんだとわかって,安心した」という声を聞いた時には,われわれもほっとしたものだった。
 ところで,埼玉医科大学答申に引き続く,日本精神神経学会の「性同一性障害の診断と治療に関するガイドライン」の答申では,性同一性障害に悩む人たちが多くの心理的,社会的困難を抱えることに配慮し,カウンセラーや心理士の対応の義務づけなどを強調した。
 2つの答申の作成に参画して,1つの現象を病気かどうか認定することは医学的な病理性の判断だけではできないこと,また,医学的診断だけでなく,その現象の持つ障害にどのように目を向けて,対処(治療)するかによって,病気と診断することの意味が問われるのだという,きわめて当然のことを学んだ次第である。
 新しい年を迎えるにあたり,社会のありかたや文化,経済の変動する昨今,医学もまた,さまざまな変容や対応を迫られる時代のやってくることを予感するのは私だけであろうか。