医学界新聞

 Nurse's Essay

 自分が変化するおもしろさ

 宮子あずさ


 私が生まれた6月30日は,病院のボーナス支給日。毎年病院からお祝いをもらっているようで,なんだかとても得をしてる気分です。34回目だった今年の誕生日も,その幸せな気分は変わりません。それどころか,むしろ看護婦という仕事に就いてからは,年を重ねることのよさというものが,年々身にしみてきています。
 看護婦になりたての頃,私は,人間の生への執着をみることが,つらくてたまりませんでした。
 それは例えば,こんな場面です。
 脳出血で片麻痺になったある老人が, 「こんな身体になってしまって,みんなに迷惑をかける。死にたい,死にたい」と泣いて看護婦に当たり散らし,それでも食事の時間になれば,食べこぼしながらも必死にご飯を食べる……。
 まだ20代半ばだった私は,その鬼気迫る生々しさを受けとめることができず,その場に立ちつくすだけでした。
 あの頃の私にとっては,人の死は潔いものであってほしかったし,生きることは美しいことであってほしかったのでしょう。自分なりにありのままの現実を受け入れる努力はしたつもりですが,どうにも力及ばず,ずいぶん自分を責めたり,人を責めたりしたように思うのです。
 しかし,それから10年たって,いろいろな患者さんの老いや死を見,何より親たちの老いを深く感じるにつけても,時に投げやりになったりしながらも,最後は生きることに執着するのが人間なのだろうなぁ,という思いを深くしてきました。
 プライドが高くなったり,ナースコールへの反応が多少遅くなったり,年を重ねるのはいいことばかりではないでしょう。それでも,決していつも美しいとは言えない人間のありようの中にいじらしさを見,時に泣きたいような思いになりながらも,最後は「まあ,仕方ないよねぇ」と苦笑いできるようになること……。
 この変化は,看護婦として,何にも替えがたい財産ではないかと思うのです。まだまだ人間ができていない私ですが,これからも看護婦として働きながら人間を磨いていきたい,そして,若い頃の看護を悔いるのではなく,自分が変わってきたことを素直に喜べるような。
 そんな年の重ね方をしたいと思うのです。