医学界新聞

特別記事

 21世紀に求められる医師像

日野原重明 聖路加国際病院理事長・名誉院長(「医学教育者のためのワークショップ」特別講演より)


 早いもので23回を迎えました「富士ワークショップ」,正式には「医学教育者のためのワークショップ」ですが,本日はこの場で講演させていただく機会を得られたことを素直に喜びたいと思います。
 皆さんのように,普段の仕事場を離れ,こうして美しい富士山の麓において教育方法についてのワークショップをなさることを「リトリート」,日本語に訳すと「退修会」と申します。私たちのフロントである職場から離れたところで,もう一度自分たちの計画や行動を考え直すことでもあります。私たちはあまりに忙し過ぎて,自分を見る,あるいは友人を見る,社会を見るということを忘れがちです。
 そういう意味で,1時間でも大切にしたいと思っていらしゃる皆さんが,1週間もの時間をこのリトリート,ワークショップのために費やされたことは,おそらくこれからの行動に大きな影響を与えると思います。

「21世紀医学・医療懇談会」における提言

 さて今日私は,21世紀の医師像はどういうものか,21世紀の研究者像はどういうものかということを皆さんにお話したいと思います。
 これまでの日本の医学の歴史を考えてみますと,ノーベル医学・生理学賞が制定されたのが1901年ですが,その後の96年間に医科大学や医学部の出身でノーベル医学・生理学賞を受賞した人は1人もいません。ご存知のように,利根川進先生が先年受賞なさいましたが,彼は医学部ではなく,京都大学の理学部の出身です。
 免疫学の研究を志して,分子生物学の渡辺格先生(慶大名誉教授)に相談したところ,ご自身がアメリカの教授として働いてきた方ですから,「日本には研究に適した所はない」と教えられ,アメリカの研究所を紹介されました。そして,さらにバーゼル研究所に行って研究を重ね,ついに彼の免疫学の理論が美しく花を開いたわけです。
 わが国の医科大学や医学部には利根川さんに負けないような人材がたくさんいるのですが,その人が大学に残っても伸ばせる素地,畑がありません。むしろ,成長を阻止する傾向があり,クリエイティブな発想をサポートするような体制はあまり見受けられません。そのようなことを考えますと,わが国の研究体制はこのあたりで考え直さなければいけないと思います。  つい最近,文部省が「21世紀医学・医療懇談会」を召集しました。学部長級の方々が大勢集まり,どのように医学部の入学試験を行なえばよいのか,医師の適性とはどういうものか,そして,そのための具体策はどういうものがあるのかが議論されました。私はそこに呼ばれまして,1時間ほど提言をしました。
 第1番目には,日本の医科大学および医学部の教員の数の問題です。
 ここに示したのはジョンズ・ホプキンス大学医学部という,アメリカでも最も評価の高い大学の内科系の教官の数です(表1参照)。驚くべきことに,内科だけで439人もの教官がいます。そして,準教授をわが国における助教授,同様に助教授を講師,講師を助手とみなして,わが国とアメリカの大学の一般内科の教員数を比較してみると表2のようになります。


 教員の数だけみても,比べようもないほどにその差が大き過ぎるのです。桁が2つぐらい違うのですから,研究も臨床もどうしようもない。ですから,私はその懇談会で,「現在のままの体制だったら,21世紀は絶望的だ」と蛮勇を奮って言いました。
 わが国の大学の歴史を振り返ってみますと,農学部や工学部,または理学部では戦後多くの講座が新設され,それに従って教授も多くできました。ちなみに私の調査によれば,東京工業大学には教授112名,助教授92名,講師3名,助手165名の計375名。京大工学部には教授159名,助教授135名,講師27名,助手231名の計552名。京大理学部には教授69名,助教授55名,講師16名,助手110名,計250名の教員がいます。
 しかし,医学部に関してはそのように教員が増えるという事態は起こりませんでした。1967(昭和42)年に医科大学を新設する時の話ですが,それならばと思い,私は当時の文部次官に「新設医大に外部の研究・教育者を臨床教授として委嘱してほしい」と発言しました。
 それは,大学の教授にはなれなくとも,その素質を持っている人には「臨床教授」という身分を与え,一定期間任用して,大学で手術をし,回診をし,会議に出席してもらう。また,その人は科学研究費の申請もできるし,班研究の指導者にもなれるようにする。ただし,大学の教授会での選挙とはまったく関係なくする。文部省側は,「法律的には,“仮称臨床教授”で通すから」というお話でしたが,各大学の教授会に持ち帰ってみると,「やたらに教授を増やすのはよくない」という結論になってしまいました。
 30年もの間,私の夢が実現できなかったわけですが,今度の懇談会で再び提言しましたところ,ようやく今回はプロジェクトとして,「臨床教授制を検討しよう」ということになったわけです。

臨床能力とは何か

 そこで次に,それでは臨床能力とはどういうものであるのか,ということに触れたいと思います。
 皆さんのワークショップでも様々な場面で出てきたと思いますが,かなり幅広い能力を,私たちは臨床能力(Clinical Competence)という言葉で表現しております。臨床能力を簡単に示すと次のようになるのではないかと思います。

1)感性
   sensitivity(→compassion)
2)問題の抽出
   知識-知性
   個別性-全体性
   重要性のランキング
   (specificity, sensitivity)
3)問題解決技法
   データベース
   assessment(病歴-診察所見-ラボラトリー)
   clinical dicision analysis
4)マネージメント
   コミュニケーション
   cure,care(support)
5)教育
   患者-家族-地域社会

 ご説明するまでもないと思いますが,まず臨床能力というものは,臨床家として感性があるかどうかという一点にかかっており,感性なき臨床家には臨床能力があるとは決して言いません。
 そして,その感性に基づいて,問題点,いわゆる患者さんのプロブレムが何であるかを抽出するのです。つまり,患者さんが抱えるプロブレムは,個性的にいろいろな違いがあるので,その個別性を見抜き,何が重要であるかを判断して,問題点をPOS(問題指向システム)のようにプロブレムリストとして書ける。何がナンバーワンであり,何がナンバーツーであるかということ,そしてナンバーワンの問題を解決するためにはどうすればいいのかを考えるのが問題解決の技法です。
 病歴から診察所見,そしてラボラトリーのテストを行なって,次第に問題解決の方法が具体化してくるわけです。

「生活習慣病」とマネージメント

 それから次の段階で,たんなる治療ではなく,その病気を持った患者さんの「マネージメント」という問題が出てくるわけです。というのも,ここ数年は慢性疾患の患者さんが増えてきているからです。
 これも最近の話ですが,ご存知のように厚生省は1996(平成8)年11月に,「成人病」という呼称を「生活習慣病」に改めよう,ということになりました。
 この問題についても,20年も前から私は成人病という呼称は意味がないので,生活習慣病に改称したほうがよいと厚生省に提唱してきました。今回やっと,公衆衛生審議会で取り上げられることになったわけです。日本は何でも最低20年はやり続けないと変わらない(笑)。
 ところで成人病学会というのは,英語でいうと,Disease of the Adult の学会ということになって,何を言っているのかわかりづらいし,あまり意味があるとは言えません。これは,老人がかかりやすい病気が若いうちから出ないようにするための対策を練る成人病対策協議会ができて,脳卒中や心臓病などの成人病を調べる「成人病検診」を行なうようになった経緯があるわけですが,そこには本当の意味での論理性は希薄でした。
 最近は,分子生物学・分子遺伝学などの進歩によって,遺伝病の研究が盛んになってきましたが,そのような小児の病気以外の成人の慢性病の多くは,その人の習慣によるものです。かりに病因となる遺伝子を持っていたとしても,その人がよい習慣を持っていれば,病気にはならないであろうし,少なくとも80歳までは心筋梗塞にはならないであろうというような考え方です。繰り返されるよくない習慣が,治らない病気を作るのです。ですから,あなた自身にも責任があるのです。厚生省は高騰する医療費対策の面からも,初めて私の説を取るようになったのですね。残念ながら,本心からではなく窮余の一策とも言うべきことですが。
 ここで,先ほどの「4)マネージメント」と「5)教育」とも関連してきますが,生活習慣病は患者さん本人はもちろんのこと,患者さんと取り巻く「家族」,そしてその「地域社会」とも密接に関わってきます。この「マネージメント」については,つい先年亡くなられましたが,私が数年前に翻訳した,ジョンズ・ホプキンス大学のフィリップ・タマルティ教授の言葉を引用させていただきます。

「臨床医とは,その本来の任務として,人間が病気から受ける衝撃全体を最も効果的に取り除くという目的を持って,病む人間をマネージする人である」(『よき臨床医をめざして-全人的アプローチ』医学書院刊より)

 ここで言う「よき臨床医」とは,「エッフェクティブ・クリニシャン」,つまり「臨床能力の高いクリニシャン」という意味です。タマルティ教授が言うように,「治らない病気を持っている患者さんをマネージすることは,非常に重要である」ということを私は申し上げたいわけです。

Evidence-Based Medicine

 さて,私は皆さんにも新しい発想を持っていただきたいために,ここでアメリカで生まれつつある新しい学習方法,教授方法を紹介したいと思います。
 それは,“EBM(Evidence-Based Medicine”と呼ばれるもので,すでにJAMAの268巻17号(1992)に“Evidence-Based Medicine A new approach to teaching the practice of medicine”と題する論文が掲載されております。
 医の臨床を教えるための新しいアプローチの方法論としてのEBM。私もまだ,この言葉をどのように訳したらいいのかわかりませんので,かつて「プライマリ・ケア」という言葉が和訳されないまま使われたのをならって,このまま使います。
 これまでの歴史を振り返ってみますと,アメリカで「decision analysis(判断分析)」という考え方が出たのは1965年で,今から30年前です。それから,「clinical epidemiology(臨床疫学)」という新しいアプローチ。これも20年ほど前から出てきておりますが,日本ではまだこれからだろうと思います。それから現在は,いま申し上げた「EBM」です。
 皆さん方のワークショップにもこういうテーマを導入すると,さらに刷新したワークショップになると思います。
 日本にはあまり文献はないと思いますので,このEBMの考え方を簡単にまとめてみると次のようになります。

Evidence-Based Medicine(EBM)

EBMのプロセス
 1)患者の問題の定式化
 2)能率的で質の高い情報収集
 3)情報の批判的吟味
 4)研究課題の抽出
 evidenceとは,臨床研究の結果であり,EBMとはそれに基づいて医療を行なっていくことである


 EBMのプロセスのうち,まず,「患者の問題の定式化」。これは,患者さんのプロブレム,事実を明確にすることです。
 次に,「能率的で質の高い情報収集」。今はコンピュータシステムが発達していますから,ライブラリーに行かなくても,いろいろなヘッドラインで検索をして,文献や情報を得ることができます。開業医でも,世界の最先端の情報が得られるようになっていますから,それらを使って能率的で質の高い情報を収集する。
 そして,例えば,その薬の臨床経験を書いた症例が載っていても,これが本当に使えるevidenceを持っているものか,単なる症例報告なのかを判断する必要があります。副作用がどうなのか,どの薬がより患者のためによいかを考えるために,その論文が有益であるかどうかを検討するのです。従来の教科書的な論文には,これはこういう副作用がある,またこういう副作用もある,ということは書いてあっても,それがどの程度あるかということをまるで書いていないわけですね。
 ですから,ヘッドラインを検索して,その薬の特徴,および他の薬と比較して検討した信用のできる論文があれば,決断ができます。それを「evidence」,信頼のできる根拠と言います。そのために臨床家はもう一度論文の読み方を勉強しなくてはいけません。「この薬は面白いからこれを使ってみよう」などということではなく,その論文の信憑性をどういうことで評価するかという論文の読み方を学び,また教えることが必要になってきます。これが「情報の批判的吟味」で,この吟味の仕方を習うわけです。論文の読み方をいまにしてもう一度勉強し直す。そして,「研究課題が何であるかを抽出する」ことになります。
 つまりEBMは,日夜第一線に立って働いている前線の臨床家でも,研究課題は何かを考え出せるように教えるシステムということができます。evidenceとは臨床研究の結果であり,世界の信頼できる研究結果を集め,それに基づいて医療をすることがEBMだと言えます。
 ただし,現在のEBMはマニュアルを見てその通りにやるのであって,相手の個別性などは考えていないですね。

「医学は不確実性の科学である」

 ご存知のように,最近は臨床病理学会でも「正常値」という言葉を使わなくなり,「基準値」という概念を導入しています。それに関連させてここ数年の「医療における考え方の移り変わり」を示すと,次のようになるでしょう。

 診断:正常値 → 基準値
   (集団) → (個人)
   治療:平均医療→個別性の医療
   (教科書的,総合的)
      →(その人に合ったもの)
 指導:教訓的改善→体験的学習
   (didactic teaching)
      →(experimential learning)

 私が常に敬愛しているウィリアム・オスラーが,100年も前に非常に素晴らしい名言を残していることを紹介して,この講演を終わりたいと思います。
 今から100年前にオスラーはこう言いました。「医学は不確実性(uncertainty)の科学である」。その不確定の因子がたくさん集まって病気が生まれる。「ゆえに判断(decision making)は難しい」
 オスラーの言葉の意味を示しますと,次のようになります。

不確定の因子とは
●情報源が患者(または代弁者)の場合

 病歴の誤り,不確実性
●情報源が診察所見の場合
 見落とし,見違えなど.
●情報源が検査成績の場合
 不適材料,番号違い,ミスプリント,機械のエラー

 私たちが患者さんと接する時に得る情報源はどこにあるのでしょうか。
 まず患者さん,またはその代弁者です。ところがそこには,病歴の誤りなどの不確実性が生ずることもあります。
 私どもは以前から「健康教育」ということを熱心に行なってきましたが,健康教育というのは,例えば「C型肝炎はこういうもの」ということを教えるのではなく,個人が感じている症状や異常を上手に言語化できるように訓練することです。私ども医師は,それぞれ自分を専門家と考えていますが,しかし,狭心症にしろ心筋梗塞にしろ,実際に痛みを経験したことはありません。究極的に,私どもは患者さんからその情報を教えてもらうことになります。
 これは,「診察所見」よりも,また「検査成績」よりも重要なことです。これからの診断書は患者さんと一緒になって書かないと,独断と偏見に満ちた診断学になりかねません。
 オスラーの言うところの「不確実性の科学」であり,そして「判断が難しい」医学の世界の中に,先ほど申し上げた「POS」の考え方に加えて「decision analysis」や「clinical epidemiology」を含めた新しい考え方が生まれてきました。そして,「Evidence-Based Medicine」というさらに新しい考え方が登場してきました。
 今日,23回目を迎えたこの「医学教育者のためのワークショップ」にお招きにあずかりましたが,皆さんがこの方面のご研鑽を重ねて,エキスパートになられることを願って,この講演を終えます。

 本稿は,1996年12月6日に,富士市の富士教育研修所で開催された「医学教育者のためのワークショップ」において行なわれた日野原氏による特別講演をまとめたものである。
              (週刊医学界新聞編集室)