医学界新聞

1・9・9・7
新春随想(2)

阪神大震災を振り返る

森 悦朗
(兵庫県立高齢者脳機能研究センター臨床研究科長・附属病院診療部長)


 あれから2年が経つ。これまで幾度か震災についてとりあげる機会はあったのだが,直接の被害には遭わなかったという遠慮のためか,文句ばかりが出てしまうことを恐れてか,書くこと自体が欺瞞のように感じるからか,断り続けていた。しかし,私の専門領域に関していろいろ書くべきことがあるのにもかかわらず,あまのじゃくの私は逆に震災のことに触れざるを得ないような気分になった。
 私の住む地区は神戸市の西のはずれで震源地からもそう遠くはないが,揺れはあきらめを決めたほどひどかったものの物理的被害は軽かった。見渡すところ近所の被害も少ない。その朝,神戸が大打撃を受けていたことを知らないまま私は車で姫路の職場に向かった。車の中で聴いたラジオでは京都の被害を伝えていたため,私は京都あたりが震源かと思いこんでいたようである。午後になって職場にたどり着き,そこでテレビを見てようやく神戸の惨状を知った。
 職場では神戸方面からの通勤者は欠勤し,所内には私以外に管理職はいない。私は翌日も職場にいた。兼任の管理部長に医師や看護婦を救援のため動員したい旨の確認を求めるが,役人である彼は,「マニュアルにない」「指示がない」「要請がない」「神戸に行く必要はない」と答えるため喧嘩になりかける。しかし私には決定権がないということでそのままやり過ごしてしまった。
 若い医師や看護婦の申し出もあり,終業後,また数人ずつが休暇をとって被害の大きかった長田や鷹取地区に救援に行くことにした。診療用薬品や機材の持ち出しは禁止されていたので,懇意にしている病院などから薬剤の提供を受けて持っていった。県内の病院の休暇をとってきている勤務医や,定年退職した看護婦長にも出会った。次第に多くのボランティアの医師,看護婦,他府県の応援部隊が被災地に入ってきた。何をするつもりか知らないが英語も解さないフランス人医師たちまでいた。
 兵庫県は県立病院に500人余りの医師と3000人近くの看護婦を擁している。被災地にある県立病院はそれこそ大変な状態であったとのことだが,半数の県立病院は被災地外にあり無傷であった。無傷であった病院は県からの指示を待っていた。そして地震後10日ほど経ってから,ほとんど形式的と思える県の救護所に詰めた以外,兵庫県からの動員命令はついぞなかった。その救護所では,現場・末端の職員は本当に真剣にやっていたが,彼らの上司は役人らしい役人だった。「兵庫県救護所」という看板だけがやたら立派だった。報道は行政の不決断,不作為を責めているが,私はそのことを実に身近に感じていた。そして私自身もその一端を担ってしまっていたようだ。
 今度あのようなことが起こったらああしようこうしようとつい考えてしまう。震災の被害を振り返る報道を見ていると自然に目がうるんでくるので避けるようになった。そんな私ではなかったのに。精神科医はそれもPTSD(心的外傷後ストレス障害)の1つだというかも知れない。でもそれでは私は満足しない。神経内科医としては私の脳の中で何が起こったのかを知りたい。また公務員として医師としてどのような方策をとるべきだったのか分析したい。転んでもただでは起きない。
 臨床研究を生業としている私たちは,地震に遭ったアルツハイマー病の患者さんの地震に関する記憶を,震災の2か月後に調査した。地震のように一同に同質の強い情動を負荷することは実験的には絶対に起こし得ない。その結果,強い記憶障害を有する患者さんでも地震をよく憶えていることがわかった。強い情動の関与が記憶の強化に関係していて,強い情動を引き起こす事象の記憶は記憶システムの中でも特別な位置を占めているのだ。最近進めているMRIを使った海馬や扁桃体体積の計測を用いた研究は,そのような記憶には海馬ではなく,扁桃体が関係していることを示している。
 もう1つの課題に関して,社会は危機管理のシステム作りを声高に叫んではいるが,ろくなものは未だ得られず,医療を含めたボランティア(個人の自由意志)が広く認識されたことだけが確実な収穫であったようだ。感情に裏打ちされた個人の自由な意志による行動も,情動と同じように極めて個人的で統制されないものではあるが,この社会のシステムの中で特別な位置を占めていることはよくわかった。行政の脳に扁桃体はない。感情で動いてはならないのだからとっくに切除してある。