医学界新聞

1・9・9・7
新春随想

進化する細菌-備えは万全か

吉川昌之介
(東京大学医科学研究所名誉教授,日本歯科大学教授)


 旧年夏,大腸菌O157:H7のために国中が半ばパニック状態に陥った。
 東京大学医科学研究所を定年退官し,急性伝染病とはあまり縁のない職場で第2の人生を送り始めていた私のもとにもマスコミが押しかけ,土日もない夏を過ごすこととなった。
 10年も前,本菌の研究に首を突っ込んだことがあったので,私まで引っ張り出されたかもしれない。しかし,退官のとき,「病原細菌学を軽視するな」と一般に訴えるため,清水の舞台から飛び降りたつもりで,『細菌の逆襲』(中公新書)などという科学者にあるまじき表題の本を出したためでもあったらしい。プロとしては当然であったけれども,世間は流行に先立ってこの本にこの菌のことが詳述してあったことを先見の明と評価したらしい。
 この週刊医学界新聞の編集者も,多分,同じ理由で私に本稿を書かせてくれたのであろう。迦釈に説法は承知の上で,いや迦釈の影響力に期待して,同じ主旨のことを書かせていただく。

細菌の感染と進化

 病原菌は種の保存の手段としてヒトに感染症を起こす。ヒトはこれを防ぎ,あるいはこれと戦うための防御機構をもつ。細菌もこの防御機構から逃れ,あるいは戦うための病原性(ビルレンス)を備えている。この両者が演ずる戦いはまさに生存競争である。
 細菌はヒトの防御機構から逃れ,戦うために絶妙な変化をする。防御機構の攻勢を感知し,病原性に関わる(病原)遺伝子の発現を適応・調節する。さらに病原遺伝子の数を増減したり,質的改変をすることによって,遺伝的に進化する。この進化は多数集団中に出現した変わり者のうち新環境に最適のものが生き残ることによって起こるのである。
 細菌は,菌と菌の接合や感染によって他の菌に遺伝子を伝播する運び屋であるプラスミドやファージをもっている。運び屋の間でジャンプする遺伝体,トランスポソンもある。もし,運び屋が別の菌に病原遺伝子を水平伝播すればこの菌は新型病原菌と化する。このような新型病原菌は一定の頻度で発生する。O157:H7も,新型コレラ菌もその一例である。

またも牙むく古い敵

 この半世紀,ヒトは魔法の弾丸,抗菌剤を使って病原菌と戦ってきた。細菌は変異を起こし,あるいは耐性遺伝子をもったトランスポソンや(R)プラスミドを駆使して抵抗した。
 変異や(R)プラスミドによって耐性になるのは稀である。しかし,稀にでも耐性菌が発生し,そこにその抗菌剤が存在すれば,まさに抗菌剤の魔法の威力の故に,この耐性菌に生態学的隙間(ニッチ)を提供し,それを選択的強者にするから,多数者である感受性菌に代わって耐性菌が効率よく選択されてくる。
 かくて,この地球上に耐性菌が蔓延した。耐性遺伝子の運び屋も猛烈に増加した。ほとんどの抗菌剤が効かなくなって選択的にさらに優位になった多剤耐性菌がはびこった。そして,いったんはこの世から葬り去ったつもりであった古い敵が,ヒトの手に負えなくなって,またも牙をむいたのである。

新型病原菌出現の促進

 いま,遺伝子の水平伝播を媒介する運び屋が猛烈に増加している。この運び屋が病原遺伝子と抗菌剤耐性遺伝子を一緒に水平伝播したとき,抗菌剤耐性の新型病原菌が誕生する。抗菌剤の存在はこの新顔を選択的強者にするから,抗菌剤の使(濫)用が新型病原菌の出現を促進するのである。

細菌感染症の現状と対策

 過去,人類の最大の病苦は感染症であった。いまこういう姿はすっかり変わってしまったようにみえる。しかし,その昔猛威をふるった病原菌は決してこの地球上から姿を消してはいない。結核感染者は世界人口の1/3,17億人に達した。コレラの流行はその規模において歴史の記録を書き変えている。
 勝利宣言をしたのは少し早まったようである。医学が細菌感染症に勝利したと思ったのは幻想であった。いままで,シーソーゲームを演じつつも,新しい抗菌剤の開発が耐性菌の出現にどうにか追いついてきた。しかしいつか,おそらく極めて近い将来に,追いつけなくなる日がくるであろう。いま,世界はすでに「万策尽きた状態」(フォーリン・アフェアーズ誌)にあるのである。