医学界新聞

激動・波瀾の歴史

長谷川 泉(森鴎外記念館理事長・文学博士)


三木行治局長の溢れた風呂水

 「看護学雑誌」の創刊は,戦後いち早く1946年(昭和21年)10月,日本医学雑誌株式会社からであった。日本医学雑誌株式会社は,今日の医学書院の前身であり,戦中の情報局指導による企業合同の1社であった。創業者は金原一郎であり,『まむしのたわごと』の著を持つことで知られる。
 医学書院の名は,日本医学雑誌株式会社から「医学」を採り,別に創立(1947年)した学術書院から「書院」を採り,両者の合同・合併(1950年)の歴史を示している。
 「看護学雑誌」創刊と同年に「公衆衛生学雑誌」(1950年に「公衆衛生」と改題)を通じて,厚生省の公衆衛生局や公衆衛生院の指導を受けることになった。当時の公衆衛生局長三木行治博士が,学術書院における編集会議に出席されることもあった。
 文京区駒込林町にあった学術書院の金原元(はじめ)専務の自宅と棟つづきの事務所であった。深夜,三木博士の巨体が金原専務宅の風呂に入られると,風呂水が溢れ出て,お湯がなくなってしまうようなこともあった。

「看護学雑誌」と「看護」

 学術書院には,久松栄一郎博士がいた。専門は小児科であったが,医療行政などに見識を持ち,行動力も抜群であった。
 GHQの看護課長オルト少佐が絶対の権限を持って,日本の看護界をリードしていた時代であったから,「看護学雑誌」はその指導下に誕生した。創刊事務を処理したのは太田千鶴夫(本姓は肥後,千葉医大出のドクター)で,オルト少佐べったりの行動をとった。
 「看護学雑誌」の創刊には,オルト・久松・三木・太田という系譜が存在した。ところが太田ドクターが退社して,メヂカルフレンド社を設立するにいたって,複雑な波紋が生じた。
 日本看護協会ができると,「看護学雑誌」を協会の機関誌によこせということになった。金原一郎社長の対処は,オルト少佐・太田ドクターの策動だとわかってはいるが,妥協策として「編集はどうぞ,販売は社で」ということを申し出た。しかし,この提案は受け入れられず,協会は「看護」を創刊,ナースは「看護学雑誌」は読むなということで部数の激減を来たした。
 社の対策としては,厚生省公衆衛生局・NHKラジオドクターである石垣純二氏の智恵を借りて,大胆な付録作戦を採った。前号との比較で1000部,2000部という部数増を実現したのは,この単行本なみの付録の成果であった。
 「看護学雑誌」の歴史の中では,他に聖路加病院(現聖路加国際病院)の橋本寛敏院長・日野原重明博士の支援のことも忘れられない。久松・橋本両氏とも既に白玉楼中の人であるが,雑誌「病院」の創刊も,両氏に負うところが大きかった。

(長谷川氏は元医学書院社長・編集長。「看護学雑誌」創刊時には同誌の編集長を務めた)