医学界新聞

看護学雑誌 創刊50周年記念
座談会
 看護の50年を振り返る(2)

〔司会〕
川島みどり氏
(健和会臨床看護学研究所長)
  金子光氏
(元厚生省看護課長,元衆議院議員)

高橋シュン氏
(聖路加看護大学名誉教授)


日本の看護が始まった

准看護婦制度と保助看法

 川島 先生方にとって,看護界のこの50年間で,とても大切なこと,大きな出来事というのはどのようなことでしたか。
 私は,金子先生が執筆されました『看護の灯高くかかげて-金子光回顧録』(医学書院刊)を読ませていただきましたが,金子先生はちょうど准看護婦制度ができる時に厚生省におられ,この本の「あとがき」に「この准看制度に1日も早くピリオドを」という趣旨のことが書いてございましたので,そのあたりのところからお聞きしたいと思いますが。
 金子 あれはほんとに忘れられない出来事ですね。准看制度はちょっと長く引っ張りすぎました。看護制度を作った時に,日本の看護の水準を高めるということで教育は高校卒の資格にしましたが,これは画期的なことでした。だけど,当時はまだ圧倒的に中学卒が多かったために,最初は中卒の看護婦も認め,甲種,乙種という2種類の看護婦という制度にしたんです。甲種が高校卒の本当の看護婦で,中学卒で資格のとれる乙種看護婦というのは甲種の人たちを補佐しながら一緒に仕事をする,看護量の一部だという考えで作ったわけですね。
 ところが,医師会やら開業の先生方は乙種看護婦を歓迎し,人材確保をするつもりで自ら養成所を作った。だけど乙種看護婦には業務制限があって,それが現場ではもう大変な騒ぎを起こすという矛盾したものでしたから,現場から廃止の声が大きくなり,その要求を受け入れて乙種をやめた。そしてこの時は,厚生省の考えと日本看護協会の考えが一緒で,日本の看護婦は甲種看護婦だけにし,業務を量的にカバーする看護助手の制度を作ろうとしたわけです。
 そうしたら,乙種看護婦に頼っていた医者のグループの人たちが,それじゃ困ると言い出した。診療所で使うにしても病院で使うにしても看護婦でなければだめだということで,何とかして乙種看護婦に代わるものを作ろうという動きが出てきました。それが准看護婦の誕生につながるのですが,この名前にも困りました。戦前にもっとレベルの低い,ヘルパーのような「準看護婦」という名称がありましたから。
 高橋 私としては戦後一番大きな出来事というのは,保助看法(保健婦助産婦看護婦法,1948年公布)ができたことです。それを根拠として教育のレベルも上げましょう,カリキュラムもいいものにしましょう,いい制度にしましょう,それらしきものにしましょうということでやってきた。
 金子 この制度をめぐっては,随分いろいろと言われましたよ。「お前はアメリカの看護婦か」とまで言われた。でも,何を言われてもやっぱりあの制度はあそこで作っておいてよかったと思いますね。
 高橋 保助看法があの時にできていなければ今日の日本の看護の発展は望めなかったでしょうね。
 金子 それは思い切ってやりましたもの。
 川島 思い切ってというのは。
 金子 例えば教育水準の高揚,看護の主体性など……。
 高橋 だって,それを理解してくれる医者たちがそんなにいなかったんですもの。また,看護を教える者も少なかった。だから難しかったんですよ。
 金子 わかってくれるのは審議会のメンバーの医者ぐらいでしたね。それでも彼らと審議会の中でけんかしたものです。後で考えれば,すごく熱心だからああなったんだと思うのだけど,ほんとに真剣にけんかしたわよ。「看護とは何だ」ってことでね。

雪が床から降ってくる

 川島 高橋先生が留学からお戻りになった時のことをいまでも鮮明に覚えているのですけれど,ほんとに「はきだめに鶴」という感じでした。あの頃のユニホームはみんな木綿で自分たちで洗濯していましたから,私たちのものは本当にしわしわなのに,背の高い先生はナイロンのユニホームをばりっと着て,そしてナイロンのストッキングを履いてといういでたちでしたので,触ってみたくなるほどでした。それで,廊下をパッパッパッと歩いていらっしゃるでしょう。ほんとに「すごいなあ」と思ったんです。だからみんな先生の姿にすごくあこがれていたんですけど,あの時日本に帰られた先生からごらんになって,やはり「日本の病院は……」と思われたのではないでしょうか。
 高橋 私は日赤病院へ行って,正直なことを言うと,これが病院だったんだろうかと思いましたね。そのことを湯槇さん(湯槇ます氏)に言いましたら,ぎゅっとひねられちゃったけど,「この病院は外へ入る,中へ出ると言ったほうがいいんだね」って言ったのね。だって,中に雪が降ってくるんですもの(笑)。
 川島 天井がありませんでしたからね。
 高橋 天井も破れているし,床に穴があいていたでしょう。吹雪が下から吹き上げてくるんですよ。そして穴ぼこだらけの床の中へ,ゴムの硬くなった,エアがなくなっちゃったようなストレッチャーの車輪がはまっちゃって取れないんです(笑)。私,あの時はびっくりした。
 川島 毎朝小使さんが床の穴の周辺にチョークで白く輪を書いていくんですよね,穴があいちゃ危ないからって。
 金子 廊下が狭くて通れないんじゃない。
 高橋 その頃の日赤の廊下はそんなに狭くなかったんですよ,だからよけて通ることができたの。
 川島 それで先生は日赤病院の小児病棟に入られたわけですが,まず何を改革されようと思いましたか。
 高橋 内・外科を専攻した私がなぜ小児科に行ったかといいますと,小児科の婦長さんが結婚でおやめになったことが大きな理由ですね。私が昭和24(1949)年の9月に初めて「先生」というステータスで日赤病院の学校へ行ったら,いきなり「おまえ小児科を教えろ」と言われたの。
 小児看護も教える人がいないし,リードする人もいなくなっちゃったということなんだけれど,私は学校へ来る前に病室に14年と8か月間もいたんです。その間に外科も内科も小児科も回ったから,少しは知識があったかもしれない。だから私その時に「はい」と言うべきか,断るべきかと悩みました。でも「嫌です」とは言えないでしょう,学校の先生として雇われましたからね。そして,大人と子どもとはどこが違うんだって考えたのね。違いさえ押さえておけば,同じ人間だし,あとは疾病だって同じよね。違うところは,子どもは成長期にあるからその成長過程と,保護者がいるということ,それと大きくなるためには栄養も必要であること。それに,子どもにも自分の考えもあるわけでしょう,だからそういうことをちゃんと踏まえていれば私は教えられると思ったの。
 ところが,勉強をする材料が何にもないんですよ。読む本がない。それで,わずかに聖路加病院の図書室にアメリカの小児科の本があって,それを持ってきて,それから医者が使う子どもの発達心理の本と小児科学の本と,それらを集めて夜な夜な3時ぐらいまで勉強しましたよ。それで「あ,これならやれる」と思って「私やります」と言いに行ったの。その時にずいぶんいろんなことを考えましたね。だって,成人だって何だって勉強はしてきたけど,ちゃんとした形で教えていないから初めから勉強しなきゃならないわけですよね。
 それで成人との違いというのを押さえて,ようやく教案を作った。だけど実習もある。「実習は看護教育をまっとうする1つの手段である」と習いましたから,そうならば授業で教える時と同じように,指導案があるべきだと思ったのね。それまでは,「あんた私のやることを見てなさい,そうして覚えなさい」という,徒弟式な実習で,それはどこでもそうだった。聖路加はまだそれでもよかったほうですね。だいたいその頃の日本の看護学生たちへの病室での指導というのは看護力そのものですものね。だから,看護力になるように教えていた。
 金子 指導というよりは,働かせていたと言ったほうがよかった時代ですね。
 高橋 だから私,教育に力を入れようと思ったわけ。いままでは学生1人に患者さんを5,6人も持たせていたのだけど,2,3人にした。それでちゃんとノートに報告書を書かせて,私がチェックして,患者さんの所へ一緒に行って,一緒に看護して,なぜこうしたの,ああしたのといろんなことを質問をするようにしました。「なぜ」でよく攻められたと,いまでも言われてますよ。川島さんもそうだったんだけど……。
 川島 そう,なぜ,なぜ……(笑)。

臨床現場での創意工夫

 川島 その時,私たちは初めてでしたから全然おかしいとは思わなかったんですけど,周りには古い考えの,戦前から教育を受けたナースたちがいっぱいいたわけですよね。その人たちの中に,高橋先生は臨床指導者ということで入られて,どのように調和を図られたのですか。
 高橋 それはずいぶん抵抗はありましたよ。だけど私,一番いいことをしたなと思っているのは,小児科の婦長さんにまず相談したことですね。「私はこれまでにこれこれこういうことを勉強してきたから,小児科にいる間には少なくともこんなことをしてみたいのだけれど,どうかしら」と言いましたら,「先生やりましょう」と言ってくれたの。その次に,「それじゃスタッフの人たちにも話さなくちゃいけないわよ」と言って,スタッフの人たちを集めて説明をしたのだけど,みんな初めは渋い顔をしてましたね。だけど,私が実際に病室へ行って学生と一緒に仕事をしているうちにだんだんわかってくれるようになって,とっても協力的になった。川島さんたち若い人たちがすごく協力的だったんですよ。
 それであなた(川島氏のこと)覚えているでしょう,1kgぐらいの赤ん坊が保育器がない小児科に搬送されてきたこと。
 川島 そうですね,ナーセリー(新生児室)に入れないから,小児病棟に,病気の子どもたちと一緒の所へ入れたんですよね。
 高橋 そして小さな柳行李をベビーカート代わりにして……。
 川島 中に布団を敷いて,離被架を置いて,それに電球をぶら下げて,コップに水を入れてというように工夫をして,温度と湿度を保ったりしましたね。
 高橋 そして電気ストーブを置いて,ヤカンをのせて湯気を出して,部屋全体の温度と湿度を高めてというようにしていた。
 川島 暖房のない部屋でしたね。
 高橋 それで卒業したばかりの川島さんたちに学生をつけて,この児にはこういう問題がある,こっちの児にはこんな問題が,だからこう対処して,と指示するとちゃんと学生と一緒にやってくれたんですよ。
 そんなある日のことでしたが,おしめに直径3cmぐらいの血がついていたんですね。1kgちょっとだし,筋肉がないものだから,まるでおじいさんみたいにしわくちゃな顔をしているのね。そんなだから針を刺しても組織が縮まない。血液がみんな出てくるの。私,この児の体重から計算して全血液量を計算したわけ。そして出血量のおおよその量を知るために,婦長さんに相談して,試験室に実験のための濾紙をもらいに行って,赤チンをたらしてどれだけ広がるか見て,おしめの広がり方と比べてみると4ccぐらいのロスがあったんです。そのちっちゃい児にとっては大変な量ですよね。
 それでそのデータを持って婦長さんと2人で小児科の医長のところへ行きました。「先生,私たちが計算してみたらこんなに出血していた」と。そうしたら先生が即座に「やめましょう」と言ってくれた。その未熟児には,早く元気になるためのホルモン剤を入れていたのですが,「それだけロスするんだったら危ないからやめましょう」と言ってくださったのね。
 そういうことをこの川島さんたち若い人たちは見聞きしているわけ。だからおもしろくて仕方がなかったんだと思う。私だって,聞いてもらったり,見てくれたりしたらやりがいがあるじゃない。あの頃は楽しかったわよ。

「看護学雑誌」創刊の頃

 川島 いま,本も何もないとおっしゃっていましたが,戦後初の看護の本として誕生したのが「看護学雑誌」で,昭和21(1946)年の11月に発行されました。つまり,今年は「看護学雑誌」創刊50周年にあたります。金子先生のご著書の『看護の灯高くかかげて』の中に,ちょうど「『看護学雑誌』創刊の頃」ということを書いていらっしゃる部分がございます。当時のことを少しお聞かせください。

日本初の看護雑誌

 金子 看護に関する雑誌としては「看護学雑誌」が最初です。戦前にも,全国的でこれまでのものはもちろんないでしょう。だから「看護学雑誌」が日本で初の看護雑誌ですね。これを作ることは,厚生省が言いだしたわけじゃなくて医学書院が考えだしたのかしら。とにかく厚生省は,看護に関する本が何もないから何とかしなきゃいけないということを考えたんじゃないかな。編集委員だった石垣純二先生(厚生省公衆衛生局・NHKラジオドクター)は衛生教育を担当していた人でしたから,そのお立場から考えついたかもしれないし,あの時の公衆衛生局長だった三木行治先生も同じようなことを考えていたかもしれない。そのんなことから看護の雑誌を作ろうという話になったんじゃなかったかなという気がします。
 川島 まだ本にする紙もない頃だったと思いますが。
 金子 戦後すぐですから,紙は配給です。GHQの許可がなければ手に入らないという時代でした。だから,本を出したいということをオルトさんに話をしたのかもしれませんね。それで紙の配給なんかも気を使ってくれたかなと思ってはいますけれどもね。それで紙をちゃんともらえて雑誌が出ることになって。この雑誌を作るのにあたっては,厚生省中心に編集委員が選ばれていましたね(この項,本号「激動・波瀾の歴史」参照)。
 川島 教科書がまだない時代ですよね。
 金子 教科書は医学書院がこの後作ったいわゆる赤本(高等看護学講座,現系統看護学講座)が最初ですね。その後,准看護婦向けの教科書をメヂカルフレンド社が作っています。
 川島 私たちが学生の頃には『看護実習教本』という,モデルスクールの先生方がお作りになった実習の本がありました。インディアンペーパーの。
 高橋 吉田さん(吉田時子氏,現聖隷クリストファー看護大学長)が先生をしていた頃でしょう。あれのオリジナルは聖路加病院の「看護手順」ですよ。それとアメリカの人が自分で持ってきた手順みたいなものとを一緒に合わせたのでしょうね。あの教本は,病院で使っていた「看護手順」が基になって作られたものだと思いますよ。
 金子 オルトさんがアメリカから本を持ってきていましたね。あれを使っていたのだと思います。
 高橋 だと思いますね。でも,あれはそのまま訳したら使えないですよ。それを参考にして使ったのだとと思います。
 川島 『看護実習教本』に書かれたオルトさんの序文を読みますと,当時のアメリカの看護技術が日本の看護技術に使えるかどうかということを,デモンストレーションスクール(東京看護教育模範学院)の教師たちが実習室で実験をしてみたとあります。それと,アメリカの看護学校の教師たちが,アメリカの看護学校の教科書を快く転載させてくれたということの2つが載っています。おそらくそれらドッキングされて,かなり日本的に書き直されて出されたのではないかと思います。
 とにかく教科書類がなかったということをいまの人たちにいくら言ってもわかりませんね。紙と鉛筆だけで,ただ先生のおっしゃることを筆記したのよと言っても。
 金子 とにかく何にもなかったんだから。教科書はおろか,小説だってなかった。
 川島 ただ筆記して,耳から聞くだけでした。飯塚先生が看護史を教えてくださっていたのですが,リンダ・リチャーズさんの名が出てきますと,そのままリ・ン・ダ・リ・チ・ア・ー・ズなんて書いて(笑)。もう看護史大変だったんですよ,名前を書くだけでも。
 金子 金子準二さんという開業医の方が,看護の教科書を書いているからと見てみたら,救急法が書かれている本でしたね。
 高橋 救急法が看護だと思われていた時代があったのよ。

私の教育そのものが論文です

 川島 先ほど先生方が画期的な保助看法とおっしゃっていましたけれど,それが今日の看護教育の大学化にもつながってくるのだと思います。高橋先生も金子先生も看護系の大学で教鞭をとられていますが,看護教育の大学化についてはどうお考えでしょうか。看護大学の数がこの数年でものすごく増えてきて,何か問題が起きているのではないかという気もするのですが。
 高橋 私の身の回りには資料もないし,頭の資料がだめになっちゃったし(笑),そんなに詳しくなんて分析できないわよ。適切な教員が準備されないうちに,いま1県1大学というのは行きすぎだと思う。でも,私は20年も前に文部省の会議で,将来必ずこういう時代がきますから,大学の先生になれるような学校を早く2つ3つ作ってくださいと進言してたのね。そしたらある委員が,「何で看護婦に大学教育が必要なんだ」と言われたの。私怒ったわよ。
 金子 20年前に? だったらもっと前の文部省の人のほうが理解がありましたよ。
 高橋 私が大学設置審議会の審議委員をしていた頃の話です。看護の大学が認可請求をしてきても,文部省の審査に通る教員がいないじゃないの。私ほんとに審査会でばかにされたのよ。「ハハハハ」って笑われてね。だって審査請求の実績論文の中に紀行文が入っているのですもの。もう私は恥ずかしくて穴の中に入りたかったですよ。そういう時代ですもの。だから私その時に言ったのね。「私ども看護教育だとか臨床の看護をしている者は,そんな学術論文なんて書く暇がないんです。私なんか自分のいま教えていることがすでに論文だと思ってます」と言ったんですよ。誰かが筆記してくれたらそれが論文になるだろうとね。臨床をやっている人で,そんなに簡単に書ける人なんていないはずですよね。だけれども審議会では論文が少ないとか,何とかかんとか……。
 金子 そう,数ばっかりね。
 高橋 そしてある時の審議会で,「この人を教授でいいですね」と確認を求めてきたから,「ちょっと待ってください。この人ずいぶん論文はありますけど,臨床の経験がありませんね」と言ったの。そうしたらメンバーの医者が「臨床の経験なんかなくたって,論文がこれだけあればりっぱなものじゃないか」と言うから,私その時も怒ったんですよ(笑)。そういう時代でした。
 川島 でも,そういった考え方は,医師だけではなくて,現在看護の教員の中にも浸透していますね。
 金子 うん。恐ろしいと思ってる。
 高橋 それ何のこと?
 川島 臨床経験なんかなくても,論文の数だけあればいいよという風潮があります。
 高橋 それは世間にばかにされるわよ。あなた,看護というのは大学を出ようが,マスター取ろうが,博士号を取ろうが,実践科学ですよ。実践のできない論文なんて何がいいんですか。
 金子 あなたは聖路加大学でそういう教育をしているけど,そのほかの大学ではそうなってないのよ。
 川島 そうですね,論文の数が重んじられていますね。
 高橋 そうしたらもう看護教育なんかやめればいい。
 金子 私,あまり人に言わないけれども,いくつか新しい大学を見せてもらって話を聞くでしょう,そうするとしみじみそのことを感じた。行った先々で話を聞いていると,あら大変なことになってると思いましたね。だから,いくつも大学ができて,みんなは数が増えたって喜んでいるけど,私は素直に喜べないのよ。確かに教授も揃って,審査を受けて,認可がされて大学として通るんでしょうけれど,現実をみてみると,教育者の中に1人だけ教授になれる本物がいて,あとはそうじゃないのね。それなのに審査が通っちゃうのよ。だから私恐ろしいと思っているの。
 高橋 私は,聖路加の人は臨床臨床と言いすぎると言われたの。でも,いまの話じゃ病人さんは誰がみるの? 24時間の生活をどうやって援助するの? 医者は1日のうちに何時間しかいませんよ。それだけ大切な人ならば,大切なように扱えばいいんですけども,文部省はただ許可すればいいだけ,自分の名を上げたいだけなんですね,私に言わせれば。だから準備もできてないところに大学を作ってしまうんですね。
 川島 これは大切な苦言だと思いますね。すごい歴史的な先生方がそのようにおっしゃっているわけですから。

(つづく)