医学界新聞

対談

看護にいかすクリティカルシンキング

江本愛子
(三育学院短期大学教授)
   野地有子
(聖路加看護大学助教授)


クリティカルシンキングとは

野地 まずはじめに,クリティカルシンキングというのはどういうものなのか,何を目的とし,どのような場面で必要とされるかについて,江本先生からご説明いただきたいと思います。
江本 私たちはふだんいろいろと物事を考えているわけですが,それを本当に深く考えているかというとそうでもありません。しかし,ある問題や課題に遭遇した時に,それを解決するにはどうしたらよいかとか,問題の本質は一体何なのか,もっとほかに考えるべきことはないのかとか,あれやこれやと熟慮し,そして目的に到達する。このプロセスをクリティカルシンキングというのだなと,私は解釈しています。
 アメリカのようにごく短期間で効率のよい看護をするという社会・医療的な状況の中で,クリティカルシンキングはさらに拍車がかかったようです。日本もそうですが,私たちは看護の専門性を非常に強く意識するようになってきました。その中では,ぜひとも科学的に理論だてし,きちんと考えながら看護の実践をしていくことが要求されます。そこに,このクリティカルシンキングが必要とされるのだなと思います。

患者の立場に立った時に

野地 日本でも医療のハイテク化や訪問看護が注目されてきています。その中にあって,判断能力のある,自主的な行動のとれる看護職が求められる時代になってきていると思います。社会的,文化的背景を考えますと,アメリカとはまた違った事情でこのクリティカルシンキングというのが看護場面において大変重要になってきていると言えるのではないでしょうか。
江本 クリティカルシンキングができるということは,自分の力でその状況を十分に把握して,そして何が大切なのか,何が一番重要なのか,そういったものを判断していくということだと思います。そのためには,自己トレーニングをしていく必要があります。
 病院,施設の中で看護をしている場合にはそばに医師がいますから,その指示に基づいて何かをすればよいという風潮がいまでも根強いのですが,その中にあってそれではいけない,看護の独自性を発揮しなければ,ほかの新しい専門職の人たちと看護をいかした共同問題に取り組めない,看護の専門性を問われていると気づいている看護婦たちも増えています。例えば,在宅,地域のケアの中では,そばに医師がいませんから,自分がしっかり判断しないといけません。また,そのためのコーディネーションをどうしたらよいのか,このような考え方が非常に大切だと思います。
野地 もう1つ,以前は看護,医療のサービスを提供する場合,「人の生命は地球より重い」という言葉の下に最善の行為に努力してきたわけですが,現在は,最善のことをすると大幅に医療費がかかってしまうという問題も出てきました。
 そこで,これは私たちナースだけではなく医療スタッフの全員に言えることですが,まさにこの場面においてクリティカルシンキングをしなければと思わされます。有限の資源,それには時間,お金,マンパワー,情報などがありますが,その資源の中でいかにそれを適切に,公平に分配するのかを判断するというところにもつながってくると思います。

「考えること」を学ぶ

野地 ところでこのクリティカルシンキングという考え方はいつごろから出てきたのでしょうか。
江本 看護以外の一般の学問の中では第2次世界大戦の最中の1941年に,エドワード・グレイザーが『クリティカルシンキングの開発に関する試み』を出版しています。また,ワトソンとグレイザーは1964年に『クリティカルシンキングの評価マニュアル』を発行しています。しかしながらこの評価マニュアルは,1994年まで看護学では有力な手段として使用されていましたが,現在はこの方法では看護学におけるクリティカルシンキングを評価できないといわれています。
野地 なぜ94年以降にこの評価マニュアルが看護学に適切ではないと言われるようになったのかをユタ大学のリン・ホリスターさんに質問してみました。それによりますと,看護におけるクリティカルシンキングにはおよそ20の項目でそのスキルを見ることが大事だということがわかってきたのですが,この評価法ではその4分の1ぐらいしかカバーできないということが理由のようです。
江本 アメリカでは,看護教育の中にクリティカルシンキングが取り入れられてきています。NLN(全米看護連盟)が1989年にまず専門学校レベルで「専門職の実践にクリティカルシンキングを活用する」という声明を出しました。その後,次の1990年に「準学士課程(短大)の卒業生は,看護実践はクリティカルシンキングに基づくことが特徴である」と表明し,1991年には学士課程(大学)において「このクリティカルシンキングは看護学に関する学生の推論や分析,研究,あるいは意思決定のスキルを示す」いう声明文を出しています。
野地 日本でも教育の場にまだ一部ですが取り入れられるようになってきました。その背景には,変化が激しい時代に想定される看護場面をすべて教えきれないということがあると思います。ですから「ものを考える」ということ,クリティカルシンキングの基本である5つの思考方法,すなわち想起,習性,探究,新しい発想と創造,自己の思考方法についての知識を押さえておく必要があると思います。
江本 私もそう思います。看護婦の教育は,いま主流を占めている3年課程は特にそうなのですが,4年の大学教育でも,看護の基礎教育の中ではやはり時間が足りないと感じているのではないでしょうか。限られた教育時間の中で,私たちはあまりにも多くの課題を抱えすぎています。もっと課題を絞って,いかにものを考えて,自律した看護婦になっていくかということこそ教えなければならないでしょう。


クリティカルシンキングとの出会い

江本 野地先生は看護教育者や臨床ナースの方々とクリティカルシンキングの研究会を進めておられるそうですが,どのような研究会を主宰されているのでしょうか。
野地 私とクリティカルシンキングの出会いにもつながりますが,1994年の夏にアメリカのワシントン大学で,看護教育とカリキュラムについて勉強することを目的とした,1週間のセミナーを企画し,21名の参加者とともに出かけました。ワシントン大学では91年のNLN声明文に基づいて,大々的なカリキュラム改革をしており,訪問時には2年を経過した時点での評価について学ぶ絶好の機会となりました。
 しかし,私たちはクリティカルシンキングという言葉を知りませんでした。ですからそれがどのようなものなのか,そして具体的な教育方法について質問をしたところ,NLNでは各々の大学で独自に定義し,その学生に応じてクリティカルシンキングを取り入れた教育をするようになっているという返答でした。これは,地域の特性や学生の特性を考えながらクリティカルシンキングを取り入れなさいということです。
 このセミナーの後に,参加者の方たちとさらに勉強を深めたいという話になり,日本クリティカルシンキング研究会としてスタートすることにしました。研究会では,文献抄読をしたり,臨床の場と教育の場での事例を持ち寄り,年に2回ほど合宿形式で集まり勉強会を開いています。
 余談になりますが,ワシントン大学セミナーの最終日のディスカッションの時に,クリティカルシンキングには「批判的」という部分もありますので,この考えを身につけた学生が就職した時には,現場での受け入れは大変厳しいのではないかという質問が出ました。その時には「いや,そんなことはない,クリティカルシンキングというのはそれを乗り越えるものだ」と,ある先生がお答えになりましたが,一方では「いや,実はそういうことがあるんだよ」という声もありました。あまり学生が質問をしたり,批判的な意見ばかりを言っていると,臨床現場ではぎくしゃくする場合もあるということです。やはりクリティカルシンキングを導入して展開していくのには,臨床と教育が連携して,現場で一緒にカリキュラム改革をしていかないといけないのではないでしょうか。

ケースマネージメントとドッキング

江本 私の場合は,『基本から学ぶ看護過程と看護診断(第3版)』(医学書院刊)を翻訳する際の,著者であるアルファロさんとの出会いが大きいですね。そのような関係から,本年8月18-19日に幕張で開かれた「アルファロの国際医学・看護学セミナー」に,ケースマネージメントを専門的にしておられるテリー・パターソンさんと一緒に来日された時,プログラムの作成をお手伝いしました。
 実は,私はクリティカルシンキングをテーマとしたセミナーであると主催者の方から伺っていたのですが,アルファロさんによると,現在アメリカではクリティカルな考え方は,実際面でケースマネージメントにまで使われているようなのですね。そのために,ケースマネージメントを実践されている方を連れてこられた。つまりアルファロさんたちは,現場では単に看護過程を進め,看護診断をし,技術を行なうことだけではなく,患者さんが地域に戻った時に(あるいは戻るために)ケースマネージャーが十分に状況を把握して,地域に戻ったらどのような資源があって,どのようなものが必要で,実際にはこれぐらいの費用が必要であるというような,物的資源から人的資源まで,あらゆる面を総合的に判断しているということを示したかったわけです。いわばケースマネージメントと看護過程とをドッキングさせてクリティカルシンキングはどういうものかということをお話ししたかったのですね。
野地 私もワシントン大学のカリキュラムと教員や学生の態度や特性を見て思いましたのは,このようなクリティカルシンキングのできる人は,具体的な看護の専門知識だけでなく,この態度そのものを身につけるように教育をされているのだな,ということでした。逆にその教育を受けることは,まさに看護を志す学生の非常な特典であり,アメリカでは,自分はこの看護の道に進みたいと志す学生も非常に多いというのを聞きました。

共感的な態度も基盤に

江本 看護というのは非常に人間的な職業ですので,何か問題を感じて苦しみや痛みを持っている人たちに対し,芯からの関心を寄せること,そしてその人の痛みをわかろうとする共感的な態度,姿勢,そういったものがまさに,深く踏み込んだ思考をすることのできる大事な基盤といいますか,素地になっているのだと思います。
野地 そういう意味でこのクリティカルという言葉は,批判的とも訳せないし,科学的とも訳せないしという,非常に多くの内容を含んでいるということですね。
江本 従来のいろいろな書物には「批判的思考」と翻訳されていますが,とかく批判といいますと,人のあら探しをして非難するという意味に使われがちです。この言葉には,単に分析する,あるいは批判するということ以上のものが含まれています。ですから『アルファロ 看護場面でのクリティカルシンキング』(医学書院刊)を翻訳した際にも,結局無理に日本語として訳さず「クリティカルシンキング」としました。
野地 先ほどの話に関連しますが,私どもの研究会ではクリティカルシンキングを基盤としたフィジカルアセスメントについて学びたいという思いがありまして,アルファロさんが来日された頃と同時期に,1週間の予定でアメリカのユタ大学看護学部で20名ほどの方々とセミナーを開きました。そこで一番感じたことは,クリティカルシンキングを具体的に学んでいく方法としては,看護においては事例に当たって学ぶことが非常に重要で,また効果的だということでした。ユタ大学の先生からは,「日本での事例をたくさん集めて自分たちで検討すると本当に力になりますよ」というアドバイスをいただきました。私たちの研究会でも,さらにその点に力を入れて勉強していきたいと考えています(関連記事)。


クリティカルシンキングはどう活用するのか

野地 では,このクリティカルシンキングの活用についてお伺いしたいと思います。
江本 臨床においては,患者さんの問題は何だろうか,何が一番重要なんだろうかと優先順位をつける,そして,その影響因子あるいは要因をアセスメントをして働きかけていくわけです。事の起こる前に行動すること,問題をあらかじめ予測し予防,管理することが大切です。実際の現場ですと目の前にいる患者さんについての情報は最初の段階では大変少ないわけです。そこから患者さんとかかわりあうことで,徐々に情報が広がっていくのですが,ある程度は予測を立てて情報を集めていくことのほうが大切ではないでしょうか。
野地 情報収集においても,まず臨床推論があって,それに基づいて情報を集めていくと,非常に効率的ですね。

前向きなチャレンジが大切

江本 これは大変楽しいし,学生にもきっと興味深い方法だと思います。けれども,学生は経験がない,知識が乏しいという状態が普通ですから,果たして推論の能力があるかが問題です。言い換えれば,その力をどうつけていくのかということが教育上での問題になると思うのです。
野地 だからといって,すべて教員が示したのではまた元に戻ってしまうわけですから,それを乗り越えて新しい教育方法として,間違いを起こしても心配のない環境,自由に信念を分かち合える環境,創造性と好奇心を育む環境を作ることがまず大事です。教員は,臨床推論を実践するロールモデルとして存在することも大切です。また1人で学ぶのは非常に難しいものがありますので,小グループで学ぶ方法,それもディスカッションしながら,そのプロセスをともに学んでいくことで,クリティカルシンキングを身につける教育ができるのではないかと思います。
 いままではとかくできるだけたくさん情報を集めて,看護のサービスが適切であったかどうかを討論する場も多かったと思うのですが,そういうこととは逆に,少ない情報で推論するそのプロセスを学んでいくということですね。
江本 教員の側の準備は莫大な時間をかけなければなりませんね。考えさせるために質問を用意する。「あなたはどうしてこの情報が大事だと思ったのですか」というように,学生が自分で発見したいろいろな観察事項をけなしてしまわないで,「ああそう,これに気づいたのね。では,どうしてこれが大事だと思ったの」というアプローチをして,学生に自信を与えながら,応援するということですね。
野地 クリティカルシンキングは自分のものの見方とか思考プロセスをよく吟味することであるとつけ加えたいと思います。
 それから,このクリティカルシンキングは看護研究にとっても非常に重要なかぎになるということが言えると思います。ですから,これからは看護の発展のためにクリティカルシンキングができる看護研究者を育てていくということも,非常に大事になってくると思います。
江本 人間はとかく新しいことへの挑戦をしたがらないという側面があり,じっとしていたほうが安泰ですから変化に弱いですね。しかし,クリティカルシンキングをする場合には,そこに1つ越えなければならない山がある。その山を越えることがすなわち問題に挑戦すること,それから偏見にとらわれてはいないということです。自分のいままでの習慣や惰性から抜け出すとか,そういったさまざまな新しい局面が起こってきますね。それに前向きにチャレンジすることが大切です。自分がそれができるのだろうかと思わないで,「自分はできる」と思う,自分に自信を持つことが非常に大切ではないかと思いますね。
野地 自分を教育することと他の人を教育することも大事になってくるわけですね。

脳は筋肉のようなもの

江本 アルファロさんとおつき合いをしていて考えさせられたのですが,彼女は自分は要らないものはどんどん捨てていくんだとおっしゃって,旅行中に「もうこれは終わった,これは終わった」と書類でも何でもぽいぽいお捨てになるんです。私などは,一度捨てようかなと思っても,どこかでまた必要かもしれないと考え取っておくことが多いのですが。ですから,患者さんの情報についても,これは最重要な情報,これはちょっとおいておいてもいい情報というように判断すべきであるということなのですね。
 問題と思われることはたくさんあがりますけれども,それらをきれいに整理して,つなぎ合わせていけば,全体の構造が見えてきます。そしてその患者さんの全体像を描き出して,何が一番重要か,どういうことにポイントをおくべきなのかということに気づくことが大事なのですね。
野地 そしてその技術を身につけることですね。
江本 また,アルファロさんは「脳は筋肉のようなものである」と言っています。筋肉は使わなければ萎えていき,リハビリが必要になります。私たちの大脳は,使うべきほどは使っていないのだから,鍛えることも必要でしょう。
野地 アメリカでは,幼稚園からこのクリティカルシンキングを学んでおり,読み書きや計算ができることとともに,推論できることが協調されています。
 ここで,私は臨床の方々に2つほど具体的な提案があります。1点は,臨床の場でも先ほど話に出たようなクリティカルシンキングを取り入れた事例検討をしてみてはいかがでしょうかということ。もう1点は,大学や看護教育の場で行なわれていることにぜひ関心を持って参加していただきたいということです。学生は実習として臨床現場に出かけますので,新しいカリキュラムを一緒に教育しているという立場に立って,プロセスに参加していただけたらと思っています。
 聖路加国際病院の場合は,婦長の間から新カリキュラムについて知りたいとのニーズが出てきておりますので,年に数回病院と聖路加看護大学との合同による教育会議を開き,お互いの情報交換をするようにしています。
江本 その時と場所にふさわしく行動することもクリティカルシンキングの結果でしょうからね。それから,クリティカルシンキングという題目をあげながら,内容は看護過程ではないかとコメントをくださった方がいましたが,看護過程を進めていくと,どうしても思考プロセスをきちんと踏まなければならないのです。もともと看護過程そのものが問題解決テクニックです。ですから当然看護過程には入っていたはずなのだと思いますね。改めてその方法を再確認して,自分の持っている思考の方法を振り返りながらそれを改善していくということが,このクリティカルシンキングの趣旨ではないかと思います。

(おわり)