医学界新聞

連載
脳 腫 瘍

脳腫瘍をめぐる分子生物学的知見
発生原因から遺伝子治療まで(3)

田渕和雄(佐賀医科大学教授・脳神経外科)

はじめに

 がんに関する研究の進歩に伴い,ヒト脳腫瘍についても,その発生,増殖,分化,浸潤,薬剤耐性といくつかのがん遺伝子,あるいはがん抑制遺伝子との関わりが明らかになりつつある。一般に前者のがん遺伝子は細胞を増殖させる働きを持つ遺伝子群であり,後者のがん抑制遺伝子は細胞が増殖するのを抑制する遺伝子群を意味する。
 近年,分子生物学的手法のめざましい発展により,ヒト脳腫瘍,特にその中核をなす膠腫(グリオーマ;glioma)の発生にはいくつかのがん遺伝子の異常発現や病的活性化が関与するが,むしろ複数のがん抑制遺伝子の変異や欠失がより深く関わっていることが判明してきた。さらに病理組織学的に同じ範疇に属する膠腫であっても,それらの根底にある遺伝子異常は個々の脳腫瘍で異なっていることもわかってきた。
 このような脳腫瘍に関する分子生物学的知見は,基礎研究者に限らず,臨床の第一線で脳腫瘍の診療に携わっている主治医にとっても必要な知識となってくるものと考えられる。
 そこで今回は,(1)脳腫瘍(特に膠腫)で見られる種々の遺伝子異常,(2)多段階発がんと膠腫,(3)遺伝性神経系腫瘍症候群の3つの事項について概説する。

脳腫瘍(特に膠腫)で見られる種々の遺伝子異常

 現在知られている様々ながん遺伝子の多くは,元来正常な細胞の増殖あるいは分化に重要な役割を果たしている遺伝子(原型がん遺伝子)が変化したり活性化したものである。つまり,正常な細胞において特定の原型がん遺伝子が変化したり活性化する結果,細胞の増殖制御あるいは分化の機構が障害され,腫瘍発生が誘導される。
 原型がん遺伝子については,一般にそれらの遺伝子増幅と膠腫との病因論的因果関係を指摘した報告が多い。脳腫瘍においては,既知がん遺伝子の中でもEGF-R(erbB-1,7番染色体短腕上)の増幅発現の頻度が高く,重要ながん遺伝子の1つと言える。
 これまでの報告では,膠腫の約40%にerbB-1の発現が認められており,その遺伝子の増幅発現には遺伝子変異を伴うことが多く,細胞膜通過ドメイン,あるいはEGF結合ドメインでのアミノ酸置換が知られている。そのためリガンドであるEGFの刺激がなくても,チロシンキナーゼ活性が発現されると考えられている。
 一方erbB-1の遺伝子再構成による異常も報告されている。erbB-1の発現は,膠腫の中で最も悪性である膠芽腫(グリオブラストーマ;glioblastoma)で特に発現頻度が高いが,その過剰発現が膠芽腫の発生に直接関与するのか,あるいは他の遺伝子異常に付随した二次的なものであるのかについては,未だ議論の余地がある。因みに臨床経過が極めて早い膠芽腫群でerbB-1の発現が高率に認められたとの報告がある。
 erbB-1をはじめとしてこれまで種々のがん遺伝子とヒト脳腫瘍との関連が検索されいるが,脳腫瘍での発現が報告されている主ながん遺伝子をまとめて表1に掲げた。
 ところで,この数年間脳腫瘍における遺伝子異常として,がん抑制遺伝子群がより重要な位置を占めているとの考えが強まってきた。がん抑制遺伝子は正常細胞の増殖制御や発生・分化などに関与し,通常対立遺伝子の両方の変異,あるいは欠失によって腫瘍化がもたらされると考えられている。現在判明している主ながん抑制遺伝子をまとめて表2に掲げた。
 これまでの研究から,ヒト脳腫瘍の発生あるいは進展にp53(17番染色体短腕上)およびCDKN2/MTS1(p16ink4)(9番染色体短腕上)遺伝子の変異,欠失といった異常が深く関与していることが明らかとなった。これまでの諸家の報告およびわれわれの研究結果から,p53の変異は膠腫の30-40%,CDKN2/MTS1(p16ink4)の欠失は膠芽腫の50%以上に見られるといえる。むろんこれらに加えてNF1,NF2,RB遺伝子などの異常と脳腫瘍との関連についても研究が進められている。
 p53やCDKN2/MTS1(p16ink4)などが直接関わる腫瘍の増殖能に加えて,脳腫瘍の性格を規定する因子として浸潤・播種能がある。正常な細胞は他の細胞や特定の細胞外基質と接触すると移動や増殖を停止する。ところが神経線維腫症2型の責任遺伝子であるNF2の遺伝子産物(merlinまたはshwannominと呼ばれる)は細胞接着に関与するシグナルを細胞骨格に伝える役割をしていると考えられている。
 したがってNF2が異常となればシグナル伝達に破綻を来たし,細胞の腫瘍化・浸潤能の獲得がもたらされると推測されている。事実,NF2遺伝子はNF2患者に限らず,散発性の神経鞘腫,髄膜腫においても変異が認められることから,ある種の脳腫瘍の発生に直接関わる重要な遺伝子と言えそうである。
 一方比較的悪性度の低い膠腫(low grade glioma: Grade I , II )から膠芽腫(Grade IV )へと悪性化した症例では,しばしば10番染色体の一部の欠失が見られること,さらに膠芽腫の80%以上に同じような欠失が認められることから,この部位に膠芽腫の発生・進展に関わる未知のがん抑制遺伝子の存在が想定されており,早期の解明が待たれている。

多段階発がんと膠腫

 複数のがん遺伝子,あるいはがん抑制遺伝子の異常が細胞に蓄積することによって,腫瘍が発生・進展することは,最初に大腸がんにおいて明らかとなった(多段階発がん,multiple steps to carcinogenesis)。
 現在ヒト脳腫瘍についても,同じような機序で腫瘍の発生・進展がもたらされていると考えられている。脳腫瘍のうち膠腫についてはCollinsらの仮説がある(図1)。それによると,正常グリア細胞においてなんらかの原因によりp53遺伝子の欠失,あるいは変異が生じる結果,low grade glioma(Grade I , II )が発生し,次いで9番染色体短腕の一部〔おそらくCDKN2/MTS1(p16ink4)遺伝子と考えられる〕が欠失することにより,anaplastic glioma(Grade III )へと進展し,さらに10番染色体の一部の欠失,正常EGF-R(erbB-1)の過剰発現,あるいは異常EGF-Rの発現が加わることにより膠芽腫(glioblastoma)に至るというものである。


 一方von Deimlingらは17番染色体短腕のヘテロ接合性の消失(loss of heterozygosity;LOH)とEGF-R(erbB-1)遺伝子の増幅発現とが逆相関を示すことから,膠芽腫には遺伝子変化の観点から少なくとも2つのtypeがあると推測している。
 type1では17番染色体のLOHが起こり,星状細胞腫(アストロサイトーマ;astrocytoma)が発生し,さらに10番染色体などのLOHが加わって膠芽腫に至るというものである。これにはEGF-R(erbB-1)の増幅は見られず,比較的若年者に多い。type2では17番染色体短腕のLOHは認められない代わりに,EGF-R(erbB-1)の増幅発現が見られ比較的高齢者に多いとしている。
 現在考えられている膠腫における種々の染色体欠失を中心とする遺伝子異常と悪性変化との関係を図2に示した。これからの研究よって遺伝子異常に関する知見が蓄積してくれば,このシェーマはもっと詳細かつ複雑になるものと予測される。つまり筆者が以前から指摘しているように,一見同じphenotypeの脳腫瘍であっても,個々の腫瘍で異なるgenotypeを示し得るということである。


 近い将来,種々の遺伝子マーカーを用いて脳腫瘍の遺伝子診断を行なうことで,脳腫瘍の詳細な分類や病態解析,治療法の選択,薬剤感受性,予後の推定などが可能になると考えられる。

遺伝性神経系腫瘍症候群

 従来はphakomatosis,あるいはneurocutaneous disorderの範疇に属していた疾患の多くは,1995年にD.N.Louisらが新しく提唱したhereditary tumor syndromes of the nervous system(遺伝性神経系腫瘍症候群)に包括される。それらのうちの主な疾患とそれぞれで指摘されている遺伝子異常とをまとめて表3に示した。


 まれではあるが,Li-Fraumeni症候群はp53遺伝子の変異を共通の背景として,家系内に脳腫瘍を含む種々の新生物が発生することで特によく知られている。最近,われわれも本症候群と考えられる家系に遭遇した。

おわりに

 これまで述べてきたように,脳腫瘍に関する遺伝子レベルでの病態解析が進むにしたがって,多くの遺伝病と同じようにある種の脳腫瘍については,その発生の背景にある遺伝子異常をめぐる倫理面での問題が予想される。例えば,脳腫瘍の遺伝子診断に関わる情報提供,発症前診断,遺伝カウンセリング,遺伝プライバシー,医療保険,雇用と遺伝的差別などをあげることができる。したがってわが国においても広く遺伝子診断全般に及ぶ倫理問題の取り扱いに関する基準の策定が急務といえよう。 


 表1 脳腫瘍で発現しているがん遺伝子

がん遺伝子 EGF-R
(erbB-1)
erbB-2/neu PDGF-Rα PDGF-Rβ
細胞内局在 細胞質
分泌蛋白
細胞質 細胞質 細胞質
分子量(kD) 170 185 180 180
ドメイン チロシンキナーゼ
EGF-R
細胞膜貫通領域
チロシンキナーゼ
細胞膜貫通領域
チロシンキナーゼ
PDGF-R
細胞膜貫通領域
チロシンキナーゼ
PDGF-R
染色体局在 17p13-p12 17q21-q22 4q11-q12 5q31-q32
機能 EGFとの結合 EGF-Rと
50%の相同性
PDGF AA,AB,
BBとの結合
PDGF
BBとの結合
関連脳腫瘍 膠芽腫 星状細胞腫
膠芽腫
膠腫 膠腫

がん遺伝子 ros1 PDGF-A PDGF-B/sis H-ras src
細胞内局在 細胞質 細胞質 分泌蛋白 細胞膜内側 細胞膜内側
分子量(kD) 259 16 14 21 60
ドメイン チロシン
キナーゼ
細胞膜
貫通領域
/ Env蛋白 GTPase
EGF-R
チロシン
キナーゼ
細胞膜
貫通領域
染色体局在 6q21-q22 7pter-q21 22q12.3-q13.1 11p15.5 20q13.3
機能 細胞の分化と
増殖
PDGF-Rの
リガンド
PDGF-Rの
リガンド
情報伝達 神経分化
関連脳腫瘍 膠芽腫 膠腫 髄膜腫
膠芽腫
膠芽腫
下垂体腺腫
膠芽腫

がん遺伝子 raf/mil gli fos c-myc N-myc MDM2
細胞内局在 細胞質
分子量(kD) 74 118 62 64,67 66
ドメイン セリン・
スレオニン
キナーゼ
PDGF-R
Zinc finger
蛋白
Zinc finger
蛋白
DNA結合 DNA結合
染色体局在 3p25 12q13-q14.3 14q24.3 8q24 2p24.1 12q
機能 セリン・
スレオニン
キナーゼ
転写制御 細胞増殖 胚形成   p53結合
関連脳腫瘍 膠芽腫 膠芽腫 下垂体腺腫 髄芽腫
膠腫
星状細胞腫 膠腫


 表2 主ながん抑制遺伝子

がん抑制遺伝子 P53 RB NF-1 NF-2
細胞内局在 滑面小胞体 細胞膜
蛋白質名 p53 RB neurofibromin merlin
分子量 53 110-115 327 66,69
染色体局在 17p13.1 13q14.2 17q11.2 22q12.2
遺伝子変異部位 エクソン5-9 E1A結合部 GAP相同部 点突然変異
肺細胞遺伝子変異 Li-Fraumeni
症候群
家族性網膜
芽細胞腫
神経線維腫症
1型
神経線維腫症
2型
関連腫瘍 悪性リンパ腫
白血病,大腸癌
脳腫瘍
小細胞癌
骨細胞腫
膀胱癌,乳癌
神経線維腫
大腸癌
膠腫
聴神経腫瘍
膠腫
髄膜腫
機能 細胞周期調節
転写調節因子
G1/S調節 GAP活性 細胞骨格

がん抑制遺伝子 WT1 DCC CDKN2
細胞内局在 細胞膜
蛋白質名 p16
分子量 52-54 16
染色体局在 11p13 18q21.3 9p21
遺伝子変異部位 欠失
肺細胞遺伝子変異 Wilms腫瘍
Denys-Drash症候群
家族性腸
ポリポーシス
関連腫瘍 Wilms腫瘍 大腸癌 悪性黒色腫
膠芽腫
機能 転写調節因子 N-CAMとの相同性
細胞接着
細胞周期調節

がん抑制遺伝子 APC VHL BRCA-1 MEN1
細胞内局在 細胞質 細胞膜 核?
蛋白質名 APC VHL BRCA-1 ?
分子量    
染色体局在 5q21 3p25-p26 17q21 11q13
遺伝子変異部位 点突然変異 点突然変異
欠失
点突然変異
欠失
 
肺細胞遺伝子変異        
関連腫瘍 大腸癌 腎癌 乳癌 副甲状腺癌
下垂体腺癌
機能 細胞接着 細胞接着