Editorial
素敵じゃないか

松村 真司松村医院


 その患者さんは,ひとりで,ふらりと現れた.

 「最近,ふーっと気を失うことがあって,と,いつも調剤してもらっている薬局で話したら,そこの薬剤師さんにすぐ診てもらいなさい,と言われて来たんです.ふだんは,別のところで診てもらっているんだけれど,ちょうど診療中だからこちらへ行くように言われたので.美術館のそば,って言われたけど,こんなところに医院があったんだ」

 北国の訛りを交えながら筋道を立てて話すその患者さんは,四捨五入すると90歳になるとはとても思えない.「今は何でもないんだけど,こう,立とうとしたときに,ふーっと」.

 しっかりと,ジェスチャーまじりの表現からすると,やはり失神のように聞こえる.

 結論から言うと,症状は最近追加された薬と関係があり,それを中止してみたところ,速やかに症状は消失した.そんなわけで,にわか名医と化した僕と,その患者さんとのおつきあいは,地元の薬剤師さんの引き合わせで始まった.

 通院のたびに,僕らは少しずつ話を積み重ねていった.戦後,結婚して奥さんと二人で上京してきたこと.大変な苦労の後,最後には家族での安定した暮らしを手に入れたこと.子供たちが巣立った後は,先のことを考えて隣町の小さなマンションに二人で転居してきたこと.これまで長く加療されてきた慢性疾患も,まあ今となっては,あるといえばあり,ないといえばない,という状態だったので,他の薬も少しずつ中止していった.季節が変わるにつれ,薬は減り,患者さんとの距離は近づいていった.

 子供たちは近くに住んでいて,まめに様子を見に来ること.息子は都内の病院に勤める医師であること.息子に話すと心配してすぐに入院検査を勧められること….「おおごとになるから,あれには自分の症状は話したくないんだ」と言いながら,困ったような,誇らしいような笑顔を見せた.

 そして,この春,奥さんが亡くなったこと.

 「心配して,子供らはちょくちょく来てくれるけれど,やっぱり淋しいねえ」.ある日の午後遅く,誰もいない待合室で,帰りのタクシーを待ちながら,そう,ぽつりと言った.私は,ふと思い立って尋ねてみた.

 「どんな奥さんだったんですか?」

 腕組みをしながら,体を動かさず,足を伸ばして少し考えたのち,彼はこう答えた.

 「うちのは,料理がとても上手だったんだよ」.

 そう言うと,手に持った保険証を財布にしまい,膝の上に置いていた帽子をかぶり始めた.どうやらタクシーが来たようだ.

 「そうですか.素敵ですね」.

 僕は,次に何を言おうか考えながら,すっと立ち上がる患者さんを見た.

 「なんでも美味しかった」.

 自動ドアが開き,運転手さんが待合室にいる患者さんの名前を告げた.短く返事をして患者さんは出て行った.再び静かな音を立てて,自動ドアは閉まった.

 僕は,食卓で向かい合っている二人の姿を思い描きながら,さっきは口に出した言葉を,心の中でもう一度,今度はどこかに届けるかのように,小さく繰り返した.