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JIM 2012年4月号(22巻4号)Editorial

コミュニティ志向性プライマリ・ケア

藤沼 康樹 (医療福祉生協連 家庭医療学開発センター)


 2011年暮れに,5回連続の「コミュニティ・マネージメント・ゼミ」というワークショップに参加する機会を得た.そこには,新しいタイプの社会起業に取り組もうという若者,クラスの生徒をどうまとめていくかについて新しい方法を模索している教師,アフリカのある国に学校をつくる活動をはじめた若者,ある街の開発に自治体とコラボしてかかわっている学生サークル代表など,これまで出会ったことのないタイプの方たちが参加していた.彼らとともに学ぶ時間は,僕にとって近年にないもっとも印象深い体験となった.家庭医である僕自身は,ゼミでのディスカッションを通じて「地域」というものを再度考えなおす機会を得ることができた.

 ワークショップはこの質問から始まった.

 「ある場所へむかう乗合バスに30名の乗客が乗り込んだ.さて,この乗客たちが,ひとつのまとまりとなり,そこに帰属意識をもてるような,そういう集団になるためにはどんなことが必要か?」

 参加者から出されたアイデアは,まずは事故や災害への遭遇,乗客のなかに病人が発生することなどだった.ドラマの見過ぎか?との笑いも起きたが,その後バスに乗り込む人たちの目的が同じ行事だったら?あるいはガイドが乗っていたら?途中でみんな降りないで終点までいったら?といった意見が出るなかで,徐々に明らかになってきたのは,人がある目的や価値で集まるための条件である.つまり,明確な目的,集団をファシリテートするリーダーの存在,集団への継続的な関与といったことである.こうしたまとまりをもち,居場所と出番のある集団を「コミュニティ」とゼミ参加者は呼んでいた.実は,「コミュニティ」はすでに日本語になっていたのである.

 プライマリ・ケアの世界では,コミュニティとは地域や共同体のことであるが,僕が出会った若者たちにとっては,ゴロッとそこにある地域,あるいは昔ながらの地縁血縁というモデルはもう存在していない.コミュニティとは,意識的に追求するものであるという感覚を,彼らがもっていることに驚いた.同じ土地に居住して利害をともにし,政治経済文化などにおいて深く結びついている社会という意味での地域共同体は都市部ではすでに消滅しつつあり,その地域に必要なコミュニティは創りだすものであるという前提で彼らは考えていた.僕が彼らと話していて思ったことは,コミュニティを診断し治療するというようなプライマリ・ヘルスケアの考えは,現代では妥当性に欠けるのではないかということである.都市部において,僕たちは「たまたま便利だから」「職場が近いから」という理由でそこに住んでいるのだから,人の集まりが自然にできるわけがないことは自明である.たとえば,都市化と並行して,実は学校や職場が居場所と出番を保証するコミュニティの役割を果たしてきたので,卒業や退職後,周りの人たちとどうつきあったらいいのかわからない人(とくに男性)が増えているといわれている.

 いずれにしても僕自身のなかで地域医療のイメージが変わりつつある.つまり,地域の健康度の向上をめざす本来のプライマリ・ヘルスケアの理念を実現するためには,あらたに小さなコミュニティを沢山デザインして,人と人とのつながりを創りだしていくことが必要なのではないかという発想に転換してきている.おそらく地域医療における地域という言葉は日本語としてのコミュニティと言い換えたほうがいい時代になっている.

文献
1)山崎亮:コミュニティデザイン─人がつながるしくみをつくる.学芸出版社,2011.