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JIM 2011年6月号(21巻6号)

すべては地域医療に

松村 真司(松村医院)


 医院を出て,川へと向かう通りを渡り自宅へと向かう途中,公園へ通じる道に入ると大きなソメイヨシノがある.私にとってのふるさとであるこの地は都内にしては緑が多く,鉄道線路沿いにも桜並木はあるのだが,他と違ってここの桜は道の脇にただ一本だけ立っている.堂々とした太い幹,そこから伸びる枝は公園の入り口の砂利道をおおうように広がっている.  朝,医院へ向かうときにはその樹の脇から自転車をこぎ出し,夜はそのあたりで自転車を降りて,押しながらゆっくり戻る.誰もいない,暗くなった夜の公園へと通じる道を,街灯と月明かりの混ざった蒼白い光に照らされ,きちきちにまかれた一日のねじをほどきながらその樹の脇を通りすぎるのが日課の一つである.

 正月休みが終わると同時に始まるインフルエンザ流行期は,年度末の事務作業が加わることによって,さらに慌ただしくなる.そのクレイジーな忙しさは花粉症が追い打ちをかけ,お彼岸の頃にピークを迎え,本格的な春の訪れとともに終わりを告げる.自分と同じ仕事をしていた両親は「私たちの本当の正月は桜が咲く頃に来る」と常々言っていた.朝から晩まで仕事に明け暮れる厳しい季節がすぎ,ようやく一息つくことができる.満開のソメイヨシノは,そんな忙しい季節の終焉を告げる自分にとっての一里塚である.

 今年は,気づいたときには葉桜になっていた.

 それは,これまで経験したことのないような長い揺れで始まった.その揺れは,その後しばらくいろいろな渦をともなってぐるりぐるりと回りつづけていた.渦の一つが詳らかにしたのは,私たちが住んでいるこの土地は,極めて不安定な土地であるということである.そしてその不安定さを恐れる人がいて,しかし不安定さから逃れられない人がいて,不安定な私たちを守るために命を賭ける人たちがいる.大きな揺れに教えられたことは,生活はすべからく地域なしには考えられないものだ,ということである.小さな原子のレベルだけを扱おうとする人間の叡智は,どこかで必ず地域という大きな単位へと向かわざるを得ない.  「こんな時に花見など」とわざわざ他人から言われなくても,私には花を愛でる余裕はなかった.花の思い出のない春.葉桜の下を通るたびに,散った花の姿を思いだそうとしてみる.満開の花の姿を思いだそうとしても,果たしてそれは今年の光景だったのか,昨年の光景だったのか,それとももっと前の光景だったのかが定かでない.そして,突然気がついた.花のことを思うことは,かつてここにいた人のことを思うことだ,と.

 年々歳々花相似たり,歳々年々人同じからず.

 地域は移り変わり,その移り変わりのなかに自分はいる.時は移り変わり,地域もまた移り変わる.すべての生活は地域にあり,その移り変わりは生と死で構成されている. そして,私たちの医療は,その生と死のために存在する.それがすべてである.