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JIM 2011年5月号(21巻5号)

2011年3月の出来事
大震災と小児用ワクチン死亡報道と

伊藤 澄信(国立病院機構本部総合研究センター臨床研究統括部・治験研究部)


 3月11日14時26分に起こった東日本大震災を,私は日比谷公園内の松本楼という古い建物の4階で会議中に経験した.結婚式用の神棚が迫ってきて,荷物をそのままにして建物の外に逃げ出した.東京は電車が止まって,3時間かけて歩いて職場まで帰ったが,都市機能の脆さを体感した.多くの職員が帰宅困難となり,職場で1泊することになった.

 国立病院機構では3月15日から4月14日までの間に宮城県に27班,岩手県に38班の医療班,福島県に11班の医師・放射線技師のチームを派遣している.私も岩手県の医療班を派遣するコーディネーターのリーダーとして,目黒区の警察発行の緊急車両の認定証を携行し3月14日に東北自動車道を北上した.岩手県の内陸部は大きな被害はなかったが,早朝についた花巻市ではガソリンを求める120台ぐらいの車の列が続く給油所が5カ所ほどあった.この光景は県内いたるところでみられた.津波の被害がひどかった沿岸部は東北自動車道から2時間ほどの距離にある.最初に盛岡の岩手県庁を訪れたが,県庁でさえ衛星携帯を使っての自衛隊や日赤チームからの情報しかなく,支援場所を指示できない状態で,通信手段を失った現代社会の脆さを露呈していた.

 自衛隊の機動力はすばらしく,がれきで埋まった道路を次々と通行可能にしていく.孤立していた避難所への車が通れるようになると次々と医療班が入り,まるで米国西部開拓時代のゴールドラッシュと同様の状態であった.私たちは釜石地区に入ったが,すでに多くの医療班が活動していたし,被災から5日目の16日には地元の保健師・看護師が避難所を管理し,地元医師が往診するほど地域医療の強さを発揮していた.ガソリン・燃料不足がなければ,医薬品・食品などの物資の供給も円滑に行われていたと思われた.17日には電気などのライフラインも復旧していた.そのため,15日まで道路が開通していなかった山田町で医療支援を行った.避難所の医療は,当初は降圧薬,慢性疾患治療薬の供給を主体としているが,数日を過ぎる頃から,衛生環境の悪化に伴い感染性下痢症,インフルエンザなどの感染症対策に,さらに心のケアへと移っていく.被災して1カ月後には地域の開業医も復活する段階へと進んでいる.今回の医療支援をコーディネートしてもっとも強く感じたことは,地域のリソースを知り尽くしている地元医師のネットワークと地域医療の強さであった.

 岩手県の被災後の経過をみるとすでに,従前の医療過疎地域の状況に戻りつつあり,一時的に過剰なまでの支援が入った後のギャップが問題になる予兆がある.一方,都市型に近い宮城県のほうが回復が遅れている印象がある.3月11日,交通機関が動かなかっただけであれほどの混乱が起きた東京で,もし同様の被害があったらと考えると,私たちは対応できるのだろうか.とりわけ,ライフラインが損傷した病院が災害拠点の役割を担わなければならなくなった時の「想定外」への対応は検討すべきだろう.

 2011年3月は本特集に関連した副作用も問題になった.小児用肺炎球菌ワクチンとインフルエンザ菌b型(HIB)ワクチンの接種後に乳幼児の死亡例が計7例報告され,1カ月間ワクチン接種が中断した.諸外国のワクチン接種後の死亡例報告の頻度と違いがないとされ,今後,死亡報告数が対10万接種あたり0.5を超えたら評価するとして接種は再開されたが,こうした数字による管理を事前に打ち出したことは画期的かもしれない.「重篤副作用疾患別対応マニュアル」は厚生労働省のHPで公開されているが,本特集はジェネラリストのための「症状からみた副作用」の保存版をめざした.薬の副作用の早期発見に寄与することを祈念している.