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JIM 2009年9月号(19巻9号)

診療現場における倫理-最近思うこと

福井 次矢(聖路加国際病院院長)


診療現場における倫理が,臨床医にとってますます身近な問題となりつつある.私が医学部を卒業した1970年代後半は,倫理が現在ほどは多くの医師に意識されていなかった.私自身,ニュルンベルグ綱領に代表される医学研究における倫理観の重要性や公害問題での加害者の論理の非倫理性などが記憶に残っている程度である.いまや,倫理をめぐる状況は一変し,遺伝子診断,生殖医療,移植と再生などの最先端医学・医療だけでなく,ターミナル・ケアやインフォームドコンセント,医療経済,判断能力や性格に問題のある患者への対応,大学や病院内の倫理委員会の存在など,まさに倫理を意識しないで一日を終える日はなくなった.

私が診療現場での倫理を強く意識したのは,1980年代前半,米国の病院でクリニカル・フェローとして勤務していた際,救急室で大動脈瘤破裂の60歳代の女性を診た時である.彼女は宗教的な理由から輸血を拒否したのであるが,病院の同僚やスタッフが平然として(まるでルーチンのように)輸血をしない決断を下し,したがって手術もせず,救急室でそのまま亡くなったのである.患者の自己判断を尊重することが日常茶飯事になるとはこういうことなのか,と驚いた次第である.米国ではそれ以外にも,ケアが必要な高齢の患者に胃瘻が安易に作られている状況や医療保険で規定される医療へのアクセスや実際の診療内容の問題点など,経済性と倫理の問題に直面することが少なくなかった.帰国後も,あらゆる治療を拒否した,高度な大動脈弁狭窄患者や腎不全患者,癌との診断が確定した患者での告知の問題も家族の意向との間で迷うことが多かった.

そのようななか,米国内科学会が自己決定権の尊重(Autonomy),利益優先(Beneficence),危害回避(Nonmalfeasance),インフォームドコンセント(Informed Consent),受託信頼の関係(Fiduciary Trust)という基本原理を明示した(American College of Physicians:American College of Physicians Ethics Manual, Part I and II. Ann Intern Med 111:245-252, 327-335, 1989).これらの原則を常に頭において倫理的な問題を考える(原則主義)ことで,ずいぶん気が楽になった覚えがある.

しかし,北米に限らず,より多様な視点から医療倫理をとらえた,世界医師会(World Medical Association:WMA)によるMedical Ethics Manual(2005年;日本語訳『WMA医の倫理マニュアル』が日本医師会によって2007年に出版)では,前項の原則主義はあくまでも倫理的な問題に対する一つの考え方に過ぎないことが記されていて,大変勉強になった.

21世紀に生きる医師にとって,グローバル化が進むとともに,医療現場での倫理の考え方も世界全体を視野に入れる必要がありそうである.