Editorial

SARS-CoV-2パンデミックと家庭医
藤沼 康樹
医療福祉生協連家庭医療学開発センター

 文芸評論家である福嶋亮大氏のエッセイによれば、SARS-CoV-2(2019新型コロナウイルス)の特異な性質の1つは、それによる感染の症状が、無症状〜感冒様症状〜急性肺炎〜多臓器不全までスペクトラムがあるものの、総じて嗅覚低下症状も含めて、呼吸器系の症状が中心であり、麻疹、エボラ出血熱、ペストなどに見られるような、急速に死に至るような劇的な経過や派手な皮疹や出血といった症状に乏しい、自己表現の「凡庸」さにあるという。さらに、無症状者が多いゆえに「どこに=誰に感染しているのか」がわからないようになっており、いわば自身の身を静かに隠す性質をもっていて、これを福嶋氏は「自己隠匿性」と呼んでいる。この凡庸かつ自己隠匿的である特徴が、東日本大震災後に懸念され続けてきた放射性物質の特徴との相同性があり、災害と復興の観点から今回のパンデミックに関する考察を加えているが、深いところで励ましを感じるエッセイである。

 また、パンデミックの影響下、最も甚大な被害を受けた国の1つであるイタリアの若い小説家が緊急出版したエッセイ集には、物理学・数学を学んだ文学者ならではの、パンデミックに関する科学コミュニケーション力に優れた解説と、気候変動や環境問題との関連、個々人の生活と倫理をめぐる問題が、密度高く記述されている。そして、今この時期に、今後忘れてはいけないと思ったことを、個々人が書き留めておこうというメッセージが説得力に満ちている。

 この2人のエッセイを読んで、理系=自然科学の知だけでなく、人文領域の知に注目することも、改めて重要だと感じる。それは現場にいる者ほど、必要になっていると思う。

 飛沫・接触を通じて感染するということで、話すこと、聞くこと、喜怒哀楽の表出、身体的に触れ合うことなどの人間のコミュニケーションの基盤に乗って、SARS-CoV-2は伝搬する。たとえば家庭医である自分自身が重視してきた、コミュニケーション、身体診察、患者宅を訪問すること、疾患ではなく患者の主体にアプローチすること、などの基本的価値観をペンディングして、「SARS-CoV-2なのかそれ以外なのか」というような単純な思考パターンにならざるを得ない状況が生まれている。こうした状況下で、やはり家庭医としての自分を、自身のヘルスリソースとしてこれまで利用してくれていた地域の人たちが発熱外来を受診する際は、過去のカルテに記載された家族構成や生活ぶりがとても役に立つし、見知った人に対する相談に乗ることは、こちらもリラックスできるところがある。普段の自分の診療と今現在の診療がやむを得ず違っていることも理解してもらえることが多い。身体的距離は保っても、心理・社会的な繋がりは保てている。

 この巻頭言を書いている2020年4月下旬の日本は、社会的な緊張感が最も高まっている時期となっている。読者の皆さんの毎日の安全を祈りつつ、連帯の意を伝えたい。