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≪シリーズ ケアをひらく≫
ALS 不動の身体と息する機械

立岩 真也


その場にいる人について、無責任について

 医師に、「生きた方がよい」と、あるいは「生きろ」と言われた人がいる。医療者が中立的でないことによって生きた人がいる。あとになって振り返って、そう言われてよかったと思い、医師がそのようであることを望んでいた[234]~[237][265][278][477]。

【527】 ALSのメーリングリストに佐々木公一[20][176]が、幾人かのメールに書かれたことを六点にまとめた「よい医者とは」という文章を載せた。《六、在宅介護等は大変だけれども、人工呼吸器を着け、人間らしくがんばろうと言いきれること、福祉制度や福祉機器を活用すればなんとかがんばれること、元気にがんばっている先輩たちがたくさんいることなどを知らせ励ますことができること。》

 周囲の人たちが中立でないことによって生きることにして、生きている人がいる。このことに対して、医師たちの「ガイドライン」はどのように答えるのだろう。

 知らせたりするのは医師のすることではないというのには一理ある。医師がその役をどうしても引け受けなければならない理由も見当たらない。そして、医師はその力が欠けていることが多く、知らせることについて適任でないかもしれない。その人たちが教育や仕事の中で何を得てきたかを考えるなら、その人たちにはこの難しい仕事を行なうのは無理で、別の人が言った方がよいかもしれない。そしてその後に、身体の症状の進行等についてのごく技術的な説明を医師がすればよいかもしれない。現実にはなかなか他に人がいないのだが、例えば看護や医療ソーシャルワークの人の方がまだこの仕事に向いているとして、その人がその仕事をするようにし、その分の医師の仕事を減らせばよい(実際には医師はこの仕事にそう時間を使っていないから、結局仕事の総量は増えるのだが)。

 ただ、こうして仕事を減らす、仕事から外すにしても、完全にというわけにはいかないから、その場合でも、医師に人への接し方をある程度は身につけさせることは必要になる。そして現在のところは医師が担ってしまっているからそれを前提にするしかない部分がある。

 こうしてやはり医師ということになるのか、そうでないのか、いずれにせよこの役を担う人はいる。また直接にその仕事を行なわない人であっても、日常的にどう対するかということはある。その人はどのようであったらよいのか。[284]で引用した米国ALS協会のマニュアルのような対応で、また[499]に引用した日本神経学会のガイドラインのようなもので、つまりこの頃はどこにでもあるようなもので対応すればよいのか。つまり、こちらはどのような状態になっていくかを知らせるから、あとは、社会資源がどれだけあるか、そういったことについて自分でよく考え、あとはあなたが決めることだと言えばよいのか。

 述べてきたように、その人にかかっている力は、周囲、社会全体のあり方によって変わってくる。場合によっては医療の側で対応する役回りの人が力を込めてなにかしなくもよいこともあるだろう。予想される事態を、きちんと、礼儀は失しないように、伝えるだけでよい場合もある。だからそのあり方は一通りには決まらない。基本的に生存が支持されているのであれば、医療の場はそれほどのことをしなくてもよいだろう。しかし現実には依然として全般的な状況が厳しいことは見てきた通りだ。そして、ALSだとわかった人は、まずは衝撃を受け悲観的であるだろう。とすれば、この場にいる人は、生きつづけていく方に向けて対するべきだ。

 次に、仮に医療の側が語ることは方向をもったものでなくてよいとしても、自らの周囲の環境、資源をよく勘案して、その上で決めるようにという対し方は中立であると言えるだろうか。それはあなたの手持ちでやってくれということでしかない。その人のまわりの状況が厳しい時、社会がその人の生存を厳しくさせている時、そのように言うことは、その人の存在に否定的に対していることだ。このように理解されて不思議でない。ここでもすべきことは中立を装うことではない。

 それでも周囲にいる人がためらうことはある。その人自身は、そのALSの人を支えることはできないと思っている。生きてほしいと真剣に思っているわけでもないし、そのために必要な仕事を自分で引き受けるわけでもないのに、生きる方向でその人に言うのは無責任だと思われる。

 呼吸器を付けたとしよう。それで生きつづけることになって、その人は病室にそのままに残され、同じベッドにいつも横たわっていて、周囲の人たちは最低限のことをするためにやってくるだけだとしよう。ならば、その人はたしかに天井ばかりを見て過ごすことになってしまう。そうなることはありうるし、実際にある。周囲の者たちにもある恐怖、息苦しさは、この状態を放置しながら、生き長らえさせてしまうことの恐怖であり、実際そうして生きていることを見ている人たち、見るのを避けながらもいるのを知っている人たちの苦痛だ。技術的な支援を行なう専門職としてその人たちの援助に長く携わってきた人が、ときに呼吸器を外したくなると語ったのを聞いたことがある。

 呼吸器を付けて生きるとは実際にはそのように過ごすことであるのに、それでも生きろと言うのかと思う人がいる。するべきこと、用意すべきものの多くは結局は人手であり、その人手のための費用である。それは医師や医療機関が用意できるものではない。だから、現在の現実としてできないものをできるかのように言うことはできないし、それができもしないのに生きなさいなどということはできない、であるのにそれを言うとしたら無責任ではないか。実際、そうした反感がある。その生活を現実にどうするかという問題があるのに、その見込みもなく、何もできないのに、その何もできない者が、それを見ることなく、何も引き受けることなく、生きさせることこそ無責任であるという言い方に一理はある。

 それは「現場」にいて「現実」を知る者たちの鬱屈でもあり、その鬱屈と反感は、正しいあるいはやさしいことを言うが、何をするわけでもなく、言っても結局困らない人たちに向けられるものでもある。このようなことを言う者たちは偽善的であり、嫌悪すべき者たちだという指摘にはもっともなところがある。もちろんその指摘は、ただこうして字を書いている者に最も適切に向けられるものだ。

 このきまりのわるさ、無責任で調子がよすぎることから逃れるのは簡単ではない。極端に深刻なかたちではALSの人たちをめぐって現れるが、それより小さなかたちではどこにでも起こる。他の人が引き受けない時に自分で引き受けると言ったら大変なことになる、だから言えない。他方、あらかじめ引き受けないことにしている人がなにか正しそうなことを言う。どう考えればよいか。

 まず、この嫌悪は、生きられるのだから生きればよいと言うこと自体に対してではなく、その人が生きるために何をするでもないのに呑気にそんなことを言うことに向けられている。だから、その人は何も言わないこと自体を肯定しているわけではない。実際には肯定的であることができないのに、肯定的であるかのような言い方をするのがずるいと言っているのだ。だからずるいと思う人は、ALSの人自身が決めることだからこちらは事実を言うだけだという言明が間違っていることも認めるはずである。

 その上で、無責任ではないかというもっともな指摘にどう応えたらよいだろう。自らの呑気さを指摘されると、たしかにその通りのような気がし、我ながらいい加減な人間のように思う。そのような構造になっていて、そこから抜けがたい感じがある。

 まず、ALSの人が生きるのに必要なことをするのは面倒であり、面倒なことはいやなことであること、いやであるからにはそこから逃避したいと思うこと、これらを、それはそれとして、事実として、認めればよい。その気持ちを否定することはできないし、なくしてしまおうとしても、たいていは徒労に終わる。そのことを嘆いても怒っても仕方がなく、否定しようとすれば嘘になる。

 次に、ではそれだけかというとそうでもないようだ。そう思う出自は定かでないのだが、例えば、だれかの命が助かればその方がよかったと思うことはある。

 すると、その人は両方を同時にもっている存在だということになる。気の短い人、あるいは潔癖な人は、あくまで関わるか、それが無理なら現実の中に放置するか、いずれかに決めてしまおうとするのだが、それには無理があるから、そのように考えない方がよい。

 まず、口だけでも、口先だけでも言えばよい。そしてそれは、さきに述べたように、個人に向けられた愛着・愛情として表出されなければならないものではない。そして生存を支持すると言った人が、それを実現するために必要な負担を一人で背負わなければならないものでもない。たしかに一人の人はなにほどのこともできないし、またできたとして、こんどはその一人あるいは少数の人が過大なものを背負うことになってしまい、それもよいことではない。そこで誰もが言い出すことをためらい、事態は悪化していく。

 だからこの時には、私自身だけでは担えないし、担うつもりもないが、しかし、あなたが生きていくことは当然のことだと言った方がよい。そして、両方を認めた上で、どうにかしていく道を考えるしかない。面倒なことであることは否定できず否定しないまま、その面倒なことを引き受ける手立てを考えるということである。たしかに私たちは無責任であるのだが、それを見越した上で、あまり無責任でないようなあり方を作っていくことは可能だ、そこから考えていけばよいということになるはずである。

 言い出したものが多くを引け受けなくてはならず、ゆえに言い出すことがためらわれ、ゆえに言い出す人が少なく、その少ない人が多くを引き受けなければならないという循環を生じさせないためには、最初から人々を引き入れてしまうことである(これは賛同しない人も巻き込んでしまうような気がし、ゆえにずるいことのような気がするのだが、そうでもない。そのことの説明は立岩[2004b] でしている)。

 しかし、その道筋はわかったとして、今、現実に不可能ならどうか。この問題はやはり残る。

 まず、そうあってほしいと思うようにはしかじかの理由でならないのだが、私はそれをどうすることもできず、こちらからは予想される身体の状態の進行とそのときに生きていくために必要な「社会資源」についての情報を伝えるだけのことしかできない、とは言える。こちら側が間違っていると言うことはできる。これは、情報を与えた上で、後はあなたが決めることだという言い方と似ているようで違う。これはただ正直でしかないということでもあるが、それでも中立という虚構は取り払われている。

 そしてこの現状でもどうにもならないのではない。実際、厳しくはあるにせよ、どうにもならないとまでは言えない。この社会にしても、求めるならまるで不可能でないところまでには来ているのだと言うことはできる。だから、その人自身はほとんど何もできないにしても、なんとかはなるらしいと言うことはできる。

(本文p.402-407より抜粋)